のんき者、風俗に行く

日本各地に新型コロナウイルスの魔の手が、じわりじわりと押し寄せる以前に、僕はふと風俗に行こうと思った。
その時は奇しくもパチンコに勝って、あぶく銭の紙幣で財布が膨れあがった時だった。
この金で、ふだんは考えもつかないような、思い切ったことをしたい。
それで色々考えた末に閃いたのが、風俗である。
今日までの人生行路を思い起こすと、自ら進んで、風俗店に駆け込んだことが、一度も無い。
2019年の夏に三十路を迎えるまでに、風俗に行ったのは、たったの3回である。
1回目は梅田で、2回目は米子で、3回目は京都でである。
どれもこれも、その時ちょうど働いていた職場の先輩や同僚に誘われたり煽り立てられたりしたのをきっかけに、それでは行ってみましょうと、ようやく重い腰を上げたものばかりだ。
米子の時が、一番面白かった。
あの時入ったホテルの部屋には、テレビとカラオケが据え付けられていた。
部屋には丁度素っ裸の男女が1組。
これは全裸ではっぱ隊の『YATTA!』を、彼らの格好を忠実に再現して熱唱する絶好の機会なのではないか。
ひとりだけならまだしも、女の人の目と鼻の先でできる機会なんぞ、彼女のいない僕には、そうそうありつけられるものではない。
そう思うが早いが、さっそく嬢をテレビの前に座らせ、僕は喜々として、「YATTA! YATTA!」と踊り狂った。
余った時間を無駄にすることなく、このような機転を利かせ、見事やりおおせた当時の僕を思い出して、我ながら褒めてやりたい気分でいる。
閑話休題
前述したように、風俗を体験した経験というのは、5本の指に十分収まるほどの、乏しいものである。
経験が乏しいからといって、特に生活に困るようなことはなかった。
時たま行ってみようかなという気になるが、職場と住所を転々として万年金欠であった僕にとっては、インターネットに転がっている動画で済ませられることを、なけなしの大枚をはたいて贅沢をするのは、とうてい縁のない贅沢としか思えなかった。
だから、風俗が性欲を解消させる手段の1つとして取り上げられ、幾多の候補と共に俎上に載せられ、結果として勝ち残ることはただ一度も無かった。
日々つつましく生きてきた僕には、風俗に行くという発想すら思い付かなかったのだ。
それに、今日まで女性と交際した経験は一度たりともなかったせいか、その方面においては、かなりの奥手だとは自覚している。
恥がある。
ためらいもある。
まんだかんだで、根っこのところは、やはり真面目で堅物なのかもしれない。
たとえ料金を支払った上での正当な性的サービスだと、頭の中では割り切ることができたとしても、心のどこかでは割り切れないものがあって、そのためにどうもすっきりしないのである。
それに夜の歓楽街をうろつくのにも、巻き込まれるかもしれない犯罪の可能性に、不安で臆病になっているのもある。
そうした諸々の事情を抱え込んでしまったがために、いまいち風俗が好きになれなかった(だからといって、好きになる必要は毛頭無いのだけれど)。
だから、数ヶ月前のこの思いつきは、これまでの僕の行動パターンから大いに逸脱した、中々見られない稀有な一例と見て取ってもいい。
なにやら一世一代の一大決心でもしたかのように述べてしまったが、もしこれが、20歳そこそこの若輩者であれば、ここまで大袈裟に騒ぎ立てるのも無理からぬ話である。
しかし、大袈裟に騒ぎ立てている当の本人は、三十路という一つの大きな区切りをとうの昔に超えてしまっている。
異性との交際経験の1つや2つあっても、性交渉を1つや2つくぐり抜けても、もはやちっともおかしくはない年歯である。
懐具合が寂しいから避けてきたのならまだしも、三十路になってもなお、恥ずかしいだの慣れないだのと、もじもじしながら他の人に言い抜けているとしたら、さすがにそれは年相応ではないと断言するほかない。
もっと堂々とするべきだ。
風俗を生活から遠ざけていた、もっともらしい理由はたった今、なくなった。
行けるのだから、行ってもいいのだ。
僕は意を決して、店に予約を入れた。
幸か不幸か、店は空いていたらしく、予約はすんなりとできた。
それほど待たされるわけではないので、それまで店の周辺をぶらぶらとほっつき歩いて、時間を潰すことにした。
ほっつき歩きながら、顎を指でなぞる。
朝方に剃り忘れた無精髭が、やはり気になって仕方がなかったのだ。
僕はめったに髭を剃らない。
仕事が機械を製造する工場で、清潔感などは特に問題とされないし、週末もほとんど人に会わないので、顔面にT型カミソリの刃をあてるのは週に2回あるかないかの頻度である。
特にこの日は一日ひとりで過ごすつもりで、まさか起床した数時間後には、風俗に行く決断を自らに下すとは思いもしていなかったので、顎や上唇には長さ2mmほどの髭がそのままにされていたのだ。
このうっすらと伸びた髭を剃るべきか否か。
予約の時間が刻一刻と迫り来るなか、僕はこの一事に頭を悩まされていた。
別に、これから交際に発展する可能性がある女性と出会うわけではない。
僕はお金を支払い、風俗嬢は性的サービスを提供する。
時間が来ればそれでお終いの、一期一会の関係に過ぎないのである。
僕の見てくれに関係なく、嬢はサービスしてくれるのだ。
それなのに、たかだか、2、3日剃り忘れた髭の存在に、気を揉む必要はあるのだろうか。
のんき者は、風俗嬢の心がさっぱり分からぬ。
分からないが、無理矢理にでも頭を絞って、風俗嬢の立場になってみる。
一見様のお客さんが無精髭を生やしているのを見出したその刹那、嬢の心によぎる感情は、果たして好ましいものであろうか。
気にしない人も、もしかしたらいるかもしれない。
けれども、大多数の嬢は口周りに髭を生やしているのを嫌がるのではないだろうか。
世の中には綺麗に髭を整えている「シャレオツ」な男性がたしかにいるが、今の僕の髭は残念ながら、廃道のアスファルトを割って好き勝手に生え散らかしている雑草のように、「シャレオツ」にはほど遠い伸び方をしている。
整理できる時間の猶予があるにもかかわらず、ほったらかしにしておいたがために、初対面の嬢が面の皮の内側で眉を顰めるようなことがあっては、さすがの僕でも申し訳なさで、いたたまれない気持になる。
それにお金を払っているのだから、気にしなくていいのだというのは、厚顔無恥にも程がある。
飲食業や観光業、宿泊業などで、アルバイトでも何でも、接客の仕事に携わったことがある人なら、言い掛かりをつける礼儀やマナーのなっていない傲慢なお客に、何度も怒りを覚えたことがあるはずだ。
言葉と姿勢と態度でお客様を応対する接客業においても、かなりのストレスを引き起こす事例に出くわすのだ。
況んや風俗業に於てをや、である。
なぜなら、接客業一般の仕事と同様にどんなに不愉快に感ずるお客にも、笑顔と礼節で以て接しなくてはならない上に、肌と肌とを密接に触れなくてはならないからだ。
風俗嬢の、毎日の仕事で積み重ねられる心身の負担の尋常にあらざることは、風俗嬢の心が分からない僕でも、想像するのに容易い。
髭を剃るの剃らないのといったことは、ごくごく些細な問題かもしれない。
しかし、料金を支払っているのだから、小さなことにまで配慮を行き届かせる必要が無いという客の理屈がまかり通ってしまえば、そして、店のルールも風俗嬢ひとりひとりの快不快の感性にまで立ち入って規定することが困難であるがゆえに、嬢も押し黙って客の無配慮を認める他ないのだとすれば、彼の人はどんどん勝手気ままな汚穢の範囲を広げて、増長していくことだろう。
剃り忘れた髭から始まると、次は切り忘れた爪に続き、その次は磨かれなかった歯に及び、終いには何日も流されなかった全身の垢に至るのだ。
さすがの僕でも総毛立つような不潔である。
しかし、如何に不潔であっても、店はそのようなお客の来店を一概に拒めないのではないだろうか。
接客業を経験した者は、理不尽なクレームや難癖に手をこまねいた経験をする度に、たとえこれから自分がお客の立場になったとしても、彼らと同じような無礼を店員に働くまいと、固く心に誓ったはずである。
例え無知な門外漢の試みに過ぎないのであっても、嬢が日々対峙する仕事を、このような想像に巡らすことができたのであれば、その誓いをこの場合にでも、あてはめなければならないのではないだろうか。
髭は剃っておくのが、無難である。
僕はぐるりと向きを変えて、ドラッグストアに駆け込むと、T型カミソリを買い求めた。
10分前に店に到着し、待合室に飛び込むや否や、店員に断りを入れて、トイレの鏡台で髭を剃った。
鏡台には使い捨ての歯ブラシとうがい薬があったので、ついでにそれらを拝借して、口臭の除去に努めた。
一日中、スパスパ煙草を吸っていたので、その臭いは口の中でしつこく残っているやもしれないのだ。
焦りながら仕度を整えて、待合室に戻ってきたのは、5分前。
ぎりぎり時間に間に合った。
ひげ剃りも歯磨きも付け焼き刃の対処であるが、全くしないよりはマシである。
自分なりに考えたエチケットを守れて、ほっと一息つく。
案外、風俗嬢に対する配慮というより、僕自身が安心したかったがために、ひげ剃りや歯磨きに躍起になっていたのかもしれない。
しかし、安心するのも束の間、これから繰り広げられる慣れない立ち合いを想像すると、緊張のあまり、心臓がキューッと縮こまる。
どうしてこんなこと、思い付いたんだろう。
途端に、帰りたくなってしまった。
どうにか緊張を和らげようと、コミック棚から有名な格闘漫画『バキ』を引き抜いて、呼ばれるまでの、イメージトレーニングとした。
残念ながら、参考になるようなことは何一つ描かれていなかった。
同じ立ち合いといっても、現実離れした隆々たる筋肉で、対戦相手を跪かせるまで、ぶん殴るわけではないのだ。

順番が回って案内された部屋は、おそらく広さは3畳ほどあった。
扉を開けると、猫の額ほどの靴置き場に、タオルケットを敷かれた寝台と、シャワー。
シャワーと寝台は1枚のカーテンで仕切られているためなのか、部屋の空気は妙に湿気っていた。
照明は薄暗い。
谷崎潤一郎の『陰影礼賛』ではないけれど、これから先の1時間で行われることと結びつけると、薄暗さというのは見事に色気と婀娜を引き立てている。
とりあえず、寝台にぽつねんと腰掛けていた。
すると、ドアを開けて嬢が入ってきた。
「こんにちはー! ○○です」と挨拶したその嬢は、愛想が良かった。
「こんにちは、どうも」と挨拶をする。
外見ではなんでもないふうを一生懸命装っていたが、内心布1枚まとった半裸の女性に、どぎまぎしている。
それから流れで、ハグをするのであるが、驚いた。
なんだ、この温もりは。
なんて暖かくて、柔らかいのであろう。
これが人肌というやつか。
どうも、肌と肌を触れあう体験に乏しかったせいか、他人というのは自分と同じように肉があり、血が流れ、熱を持っているのをすっかり忘れていた。
僕の周囲にいる他人を、その語りかける言葉やら、浮かべている表情やら、全体の見てくれやら、共通の嗜好やらで判断して、親疎さまざまな関係を結び付けてきた。
だが、どれだけ親しい他人を目の前にしても、一定の隔たりを埋めることはできない。
そうして、数多の他人と親密になったり疎遠になったり、手助けしたり害を加えられたりしていると、どこか人というのが、遠くに感じられる。
人型の薄っぺらい一枚板の張りぼてが歩いているような錯覚。
僕と同じ人でありながら、人間ではないような違和感。
自分が何らかの形で働き掛ければ、相応の適当な反応を示す自動機械。
他人という存在を、僕との関係においてしか、捉えていなかった。
他人も肉を纏っているという自明の理は、頭に叩き込むだけでは分からない。
零距離で、肌を介して感じなければ。
僕は衝撃で目を大きく見開いている間、嬢の指先は僕の脇に這い寄り、こちょこちょと指を動かした。
「ちょっ! やめてやめて! ダハハハハ!」
僕はどうもくすぐられるのに弱い。
初対面の嬢に憚らず、僕は大声を出して笑い転げて、ぶっ倒れた。
「お兄さん、めっちゃ弱いなー! くすぐられるの、アカンの?」先制攻撃がうまくいった嬢は、ニヤニヤと笑っている。
「いやー、アカンね。昔からこうやから」僕は素直に観念した。
嬢のいたずらは、これでは済まなかった。
お互い全裸になり、嬢に伴われてシャワーに移動した。
嬢がシャワーヘッドをこちらに差し向け、蛇口を捻ると、お湯ではなく水が出た。
時節は冬真っ只中である。
「ちょっと、時期を考えよう」僕は予想外の冷水にびっくりして、すぐさま嬢に突っ込んだ。
だが、それが嬢のツボに入ったらしい。
アハハハとしばらくの間、嬢の笑いが止まらなかった。
「お兄さん、面白いな-! 他の人にやったら『つめたっ!』としか言わへんのに」
「そうかな」
笑わせるつもりで言ったわけではないので、この反応は意外だった。
「お兄さん、芸人になったら?」
「芸人に? うーん、できるかな」
「いけるいける! 吉本入って、そっから東京行って」
「それで単独ライブを開くわけやね」
「そうそう! それで売れて、三枚目の芸人目指したらいいやん」
「そうやね、うん。うん? うーん・・・、それって喜んでええのかな」僕は首を傾げた。
「えー、でも、二枚目とかイケメンとか露骨に褒められるより、本当らしく聞こえへん?」
「なるほど、一理ある」
それから、嬢に全身を石鹸の泡だった両手でこねくり回されながらも、なんでもない会話が続く。
「うち、普段は何してると思う?」
「えー、なんだろう」
「あててみて」嬢は急かした。
「う~む」
いきなりの質問に、僕はいささかとまどった。
答えに結びつくヒントがまるでないのだ。
何をやってもおかしくないような気がするから、下手な鉄砲も数撃てば当たるで、とにかく思いついた職業を並べてみることにする。
「銀行員かな?」
「ちがーう」
「分かった! 介護士だ!」
「正解は看護師やで」
「ええー!」
驚いた。
てっきりアルバイトか何かかと思っていたのだが、意外にも手堅い職業に就いているとは思わなかった。
看護師なら、風俗の仕事を掛け持ちする必要は無いような気がする。
だが、その理由を伺うのは野暮なような気がした。
「でも、大変じゃない?」
小さい身体で2つのハードワークをこなす嬢に感心しながら、僕はその労苦を心配した。
僕はよく知らないのだけれど、看護師の仕事はおそらくフルタイムに違いない。
夜勤もあるだろうし、休みも少ないかもしれないし、寝る時間も取れないかもしれない。
けれども、その合間を縫って風俗の仕事もきっちり勤める。
残業無しの二交代勤務で、ぶつぶつ文句が絶えない僕には、とても真似できない芸当だ。
「全然。看護師の仕事はやりがいがあるから、めっちゃ楽しい」
少々問いとはズレた答えであったが、嬢にとってはダブルワークの負担なんぞ、ちっとも問題ではないらしい。
「学生の時に、○○○(外国名)に留学して、看護の勉強したんだよ」
「へえー! それはすごい!」
見かけによらない経歴に、僕は目を丸くさせた。
「お兄さんは、歳いくつなん?」今度は嬢が問いかけた。
次は僕が驚かせる番である。
「30やで」
「えー! うそ!」
「ほんまほんま。もうオッサンなんやで」
「ウチ、23やけど、同じくらいに思ってた」
「それとね、この年になっても、まだ童貞なんやで」
「ええぇー! うそー!」
自らの恥部を曝け出してみれば、予想を上回るほどの驚嘆するさまが返ってきたので、僕は心の中でほくほくした。
もちろん何の必要もなく、「はじめまして、のんき者で童貞です」と自己紹介のついでに、自ら進んで暴露するわけではない。
だが、職場や知り合いの人達の間で下ネタの話になると、「あー、実は僕お酒飲めないんスよ」と飲み会でアルコールを断るのと同じテンションで、早いうちに自分からさらりと告白することにしている。
その手の情報はもっぱらメディアに頼っているため、生身で獲得した実体験というものはない。
だから、無理やり話を合わせても、どこかでリアルと食い違った嘘が見え隠れする。
遅かれ早かれ周りの人から童貞を看破されるのは、明白である。
だから、いずれはバレる嘘をついたり、安直にごまかしたりするものではない。
童貞の正直者なら、まだ救いようがある。
しかし、童貞で嘘つきとなれば、これはもう、手の施しようがないのだ。
それに、童貞だからといって、別に悪いことばかりじゃない。
西陣織の会社と解雇の是非について係争中の頃、僕はリサイクル工場で日雇いの仕事をしていた。
末端の派遣は、山のように積もられた空き缶やペットボトルの袋をカッターで裂いて、中身をばらしていくのが本来の仕事である。
ところが、ひょんな時から社員の人に童貞であることが露見した。
「ほぉー! のんき者は童貞か!」社員の人は素っ頓狂な声を上げた。
「シィー! 声が大きいっスよ!」
いじられるのは慣れっこだったので、僕もふざけて調子を合わせる。
すると、その社員さんに気に入られたのか、次の日からその人の持ち場である紙類の分別作業に回された。
空き缶の入った袋をばらすより、楽だし、汚れない。
つくづく僕はその社員さんの采配に感謝したものであった。
「それじゃ、お兄さんは付き合ったことないの?」
「そうやね」
「じゃあ、ソープに行って、童貞捨てようとか思わへんかったん?」
「いやー、さすがにどうしようかなって思った! 29の最後の日に、行こうか行くまいか、ずっと悩んでた」
僕はポリポリと頭をかいた。
これは嘘である。
話を盛ってしまった。
正直に言えば、30歳の誕生日の前日、仕事で疲れていたし、眠気が激しかったから、ソープに行くだの童貞を捨てるだのは、まるで問題にはならなかった。
仕事でくたくたになって、そのまま三十路になってしまった。
人生のひとつの区切りを迎えて、じっくりとこれまでの歩みを振り返ったりする余裕が得られぬまま、次の仕事に駆り出されていく。
30歳の誕生日は、大きな節目には違いない。
もし京都で過ごしていたら、その所感についてうだうだと長文をしたためていたことであろうが、仕事に忙殺されて、それどころではなかった。
何の感慨も手応えもなく、コンビニでケーキを買って食べただけの30歳の誕生日であった。
「それにさ、成人男性で経験の無い人って、世代が上になるにつれて、どんどん割合が少ないねんて。だから、下手に童貞捨てるより、そっちのほうがもしかしたら面白いかもしれへんなーと思って」
僕はヘラヘラと冗談を言った
「えー、でももしかしたら、四十、五十になって後悔するかもしれへんで。若いうちならまだしも、年取ったら誰も相手にしてくれへんから」
「あー、やっぱり後悔するかな。うーん、悩ましい」
どうにもこうにも固まらない僕の方針は、嬢の一言で大きくぐらつく。
本気で生涯童貞であれば、面白いと考えているわけではない。
かといって、いざ本気で捨てようにも、気が引けて、相手を見つける努力をしない。
どうも、やる気が無いのだ。
どうして、こんなふうになっちゃったんだろうと首を傾げながら、ここまでの来し方を振り返る。
家族を捨てたり、引っ越しを繰り返したり、職を転々としたり、会社と争ったりなど、社会人になってからというもの、僕を取り囲む状況がまるで落ち着きをかいていたのも要因の1つだろう。
今はなんとかアルバイトで細々と食べていけるが、数ヶ月もしたらどうなっているか分からないほど、人生の先行きが全く曇っていた。
だが、仮の話として、経済的要因を取っぱらってみる。
仕事が僕の性質にぴったりはまり、生活が安定しきっていたと想定してみて、はたして僕は恋人探しに奔走したかと問われれば、それははなはだ疑わしい。
なんだかんだと理由を見つけて、独りの境遇に大人しく甘んじているような気がしてならない。
煎じ詰めれば、やっぱり行き着くところはやる気の無さであるのだろう。
かといって、そのままでいいとも思えない。
若いうちに、恋の1つや2つのできないのは、一度きりの人生なのにもったいないという意見にも、素直に頷ける。
何度かはたしかにそう思って、ネットで調べてみても、その膨大な情報量に圧倒されて、自分に必要なものを取捨選択をしているうちに、嘔吐を催すほど面倒になる。
生来の物ぐさは、なかなか根深い。
それに、妙なところで我慢強く、適応力もあるから、遠くにある幸せ欲しさにもがき苦しみ、無い物ねだりをするのではなくて、手持ちの持ち物と環境で小さな満足を見出す道を選ぶのにも平気である。
だから、恋愛の幸せや喜びも知らないし、恋愛にまつわる不幸や修羅場に巻き込まれたこともない。
ただ、この方面に関しては、やっぱり未熟であるがゆえに、正解か不正解かの判断ができない。
どっちも分からないから、最初から選ばない。
なんだかんだで先に延ばし、保留し続けているうちに、あっという間に三十路になってしまった。
これがいいのか悪いのか。
これから一体どうすればいいのか。
僕には分からない。
やはり、縁がなかったと静かに諦め、未練を断ち、天涯孤独の運命を受け入れるほかないのかもしれない。
それでも、別にひどく落胆することはない。
いずれこうなることは、とうの昔から分かっていたではないか。
「そうなんや。じゃあ、今日はとりあえず私を彼女と思っていいから、楽しんでってね」
「ありがとう」僕はいい子だと思った。
渡されたバスタオルで水気を拭いて、場所を寝台に移すと、お互いこねたりこねらりたりして、もみくちゃになった。
「もしさ、童貞狩りにあったらどうする」嬢は覆い被さって、ささやいた。
「そんな人、ほんまにおるんやろか?」僕は尋ねた。
肉食系女子はネットの噂で聞いたことがある。
しかし、童貞狩りなんぞ、そんな都合のいい話はあまりにも現実離れしすぎて、首肯しかねる。
「結構、おるよ」嬢の返事は単純であった。
「それじゃあ、僕は食べられるのか・・・」僕はゾッとした。
「いいじゃん」嬢は何でも無いかのように、ケロッとしている。
「いや、でもなー。そんなんなったら、どうしよ。逃げるか・・・。いやー、でも、据え膳食わぬは男の恥っていうしなー。迷うわー」
僕は両手で顔面を覆って照れ始めた。
「よくそんな難しい言葉知ってるね」
「いやー、君ほどじゃない」
事が済んでしまうと、ふたたびシャワーに移って、汗を流す。
「それじゃあ、お兄さん、これからは付き合いたいなーとは思わへんの?」
「うーん」僕はしばらく腕を組んだ。
「実はね、男の人とは付き合ったこと、あるんだよ」
僕は3つ目の爆弾を投下した。
「ええー!! うそー!!」嬢は目を白黒させた。
「え、うそうそ。ちょっと待ってちょっと待って。今日言ったこと、全部ホンマなん?」
焦った嬢は矢継ぎ早に問いを繰り出す。
いいリアクションである。
「ホンマやで。30で、童貞で、男と付き合ったことあるんやで」
「えー、その話、めっちゃ聞きたいんやけど」嬢が食いついてきた。
これらのカミングアウトは、見事に功を奏した。
もし、次回行く機会があるのとしたら、話の接ぎ穂に困らぬように、この3点セットを忘れぬようにしよう。
「まあ、『ノリとテンション、若気の至り』やね」
僕は、河島英五の『酒と涙と男と女』と同じ文字数で、ざっくりと付き合った経緯を言い表した。
「へえ。でも、それからどんだけ付き合ったん?」
「半年くらいかな。すぐに別れちゃった」
「なんで」
「うーん、そうやな~」僕は言葉を濁した。
別れることになった直接の原因は、僕が彼の初詣に誘うための連絡をすっぽかしたのにある。
しかし、付き合ってしばらくしてから、彼には僕の破天荒を受け入れることはできないだろうと予感してしまうような、いくつかの特徴を嗅ぎ取ってしまった。
早晩、彼のほうから嫌いになるにちがいない。
その前に僕から手を切ってやろうと思ったのだ。
だが、そのあたりのこみ入った話を語るには、あまりにも時間が少なすぎた。
「性格の不一致ってやつかな~」
僕は、よくありがちな理由を持ち出した。
「そっかー、でもこれからはどうするん?」
「そうやね~。学生だったらまだしもだけど、この歳で付き合うとなったら、女の人っていずれは結婚を意識するんじゃないかな。僕はとてもじゃないけど、結婚はできないから。結婚願望のない僕と付き合っても、相手の時間を無駄にさせるだけでしょ。それが、やっぱり申し訳なくて」
「じゃあさ、お兄さんと同じように結婚願望のない人を選んだら?」
「いるかな~、そんな人」
「いるよー」
「そうかな~。でも、出会いってどこに行ったらあるんやろか?」
「アプリとかかな」
「ああ、なるほど」
「あと、街コンとかでもいいかも。ウチの友達も何回かそれで出会ったことがあるって。でも、参加者って大体バツイチとか、ヤリ目的の人が多いみたい」
「うわー、それはけっこうヤバそうやね」
「そう。お兄さんみたいな人には、言ってほしくないなー」
そんな感じで和気藹々とした雰囲気が1時間続いた。
これまで女性と付き合ったことがなかったのは、たしかに目先の人生が一寸先の見えないほどの暗闇で、生きるのに精一杯であったことが一番であるが、下位の要因を探ってみれば、そもそも女性慣れしていないというのも挙げられる。
これまで普通の人には滅多に訪れない災難には見舞われる癖に、みんながごくごく普通に、そして数えられるほどに経験している恋愛を全くしてこなかった。
思えば、男女共学の高校生活を抜けてから得られた人間関係の9割方は男のような気がする。
高校でさえも、所属していた部活の部員を除けば、仲が良かった友達は2,3人だ。
もちろん彼らは男だ。
これまでの人生、あまりにも女っ気がなさ過ぎた。
マイペースに生きるのにかまけすぎた。
だが、30歳になると、もはや慣れない存在にお近づきになる気にはなれない。
どうしても、おっくうになってしまう。
この年になると、一度失敗してできた心の傷は、20代の時のように治りが早いわけではない。
だから、むやみやたらと新奇なものに首を突っ込みたくなくなるものなのだ(これらは、僕の経験則ではなく、昔読んだ漫画に書いてあった)。
だが、こうして嬢に気を許して、自然に話せているところを見ると、僕は全く女性が苦手ではなさそうである。
もちろん、嬢の接客が上手なのもあるかもしれない。
だけれども、本当に僕が女性が苦手であったら、嬢の優れた接客術を以てしても、会話が途絶え沈黙が流れる気まずい時間が数回流れてしまうのを、おそらく食い止めることはできなかったであろう。
いや、よくよく考えてみれば、男性でも女性でも関係なく、話が弾まなかったり、話しかけづらかったりするときがある。
男でも女でも、いい人はいい人だし、嫌な奴は嫌な奴に変わりはない。
要は、気が合うか合わないか、仲よくできるかできないかの問題で、性別は関係ないのかもしれない。
そうこうしているうちに、いよいよ時間が迫ってきた。
そして、僕がすっかり帰り支度を整え、靴を履いているときに、事件は起こった。
交わされる話題は、案の定、僕の恋人の作り方に終始して、僕の優柔不断のために、話は終着点の見えない堂々巡りを繰り返していた。
「でも、交際費とかも馬鹿にならないだろうし、あんまり乙なデートスポットも知らんし」
「そんなん、家でゲームしたり、安い店とかでご飯にしてもいい人見つければいいやん。ウチやったら、お兄さんを楽しませる自信、めっちゃあるもん」
「へえ、ホンマにー?」
僕はハハハと笑って、やんわりと受け流した。
そのときである。
嬢はとんでもない爆弾を落としてきた。
「ウチらの出会った場所が違っていたら、付き合って
たかもしれへんね」
「ええええええええええ!!!」
部屋全体に、僕の素っ頓狂な悲鳴がこだました。
不意を襲って背後から後頭部をぶん殴ってきたような、嬢の衝撃的な一言に、度を失い、思わず大声を出してしまった。
心臓の動悸が、一気に激しくなった。
「なに? ウチやったら不満なん?」
こっちの気も知らずに、嬢はふくれっ面をする。
「あっ! い、いや、いやいやいや。違う違うちがう」
これまでとはまるで別人のように、僕はどもった。
何とか喋ろうと口を懸命にパクパクさせたが、声帯が潰れてしまったかのように声が出ない。
僕はひどく狼狽していた。
「いや・・・・・・まさか、そんな事を言われるとは思ってもみなかったから」
数秒後、焦りは消えずとも、やっとこさ、声をかすらせて答えることができた。
童貞であったり、男と付き合ったりをいたずらに暴露して驚かせていたものだが、それがいよいよという段に何倍にも膨れあがって返ってくるとは思わなかった。
「それじゃ、今日はありがとう! めっちゃ楽しかった!」
部屋を出ると、嬢は屈託のない笑顔を浮かべて、抱きしめた。
「お兄さんのこと、お店の写メ日記に書くから、あとで見てね。20分後くらいかな」
「こちらこそ、ありがとう。絶対見るね。じゃあ、また、機会があれば」
心身ともにかちこちになって、型どおりの挨拶だけを言い残して手を振ると、僕は慌てふためいて、そそくさと階段を駆け下りていった。
昂奮冷めやらず、狼狽は消え失せぬまま、どこかに行くあてもなく、ひたすら歩く。
歩きながら、気持ちを落ち着かせる。
別れ際に放たれた嬢の言葉が、頭の中でぐるぐる旋回する。
あれは嘘か、それとも本音か? 虚偽か、真実か?
嬢の言葉の裏を読み取ろうと、嬢と邂逅してから別れるまでに至る情景を何度も反芻させて、必死に分析し、正解に至る手がかりを探ってみる。
幼少の頃から、いつ浴びせられるか分からない説教と叱責を回避すべく、必死で父親の顔色を伺い、彼の期待通りに立ち回ってきた結果、人の機嫌や気持ちを推し量る能力はそれなりにあると自負していた。
だが、この時ばかりは、自慢の能力も視界いっぱいに靄がかかってしまったかのように、嬢の心がまるで見えない。
言葉の裏をかいても、さらにその裏に落とし穴が待ち構えているような気がする。
解明しようとすればするほど、翻弄されるばかりで、正解には近づくどころか、ますます遠のいていくように感じられる。
歩き始めてしばらく経つと、僕は呻いて、思い悩む。
正直に言うと、素直に嬉しかったのだ。
きちんと男として見られるのだという初めての実感は、あたかも、長年真っ暗い洞窟に閉じ込められていた人が、突然救い出されて明るい地上に舞い戻れたかのように、喜びと感激に溢れていた。
もし嬢に再会する機会に恵まれれば、よくぞ見つけてくださったと、手のひらを擦り合わせて、感謝したいほどである。
しかし、すぐに疑念が頭にもたげて、浮かれ騒いだ気分が沈む。
もしかしたら、それほど本気で口にしたわけではないのかもしれない。
いや、そう考えるのが、むしろ至当であろう。
風俗もいわば客商売である。
新規のお客さんを開拓し、一度利用した客の心を掴んで手放さぬように、あの手この手の手練手管の営業手段に打って出ているのだろう。
あの言葉に、一切の真実はない。
下手な期待をしても、馬鹿馬鹿しいというものだ。
だが、しかし。
大方の目算どおりに、他の客にもしている口先だけのリップサービスだとしても、あそこまで踏み込んでサービスする必要があるのだろうか。
僕なら、まだいい。
普段風俗に行かないし、心を動かされたからといって、人生を棒に振るような下らない間違いも犯さない。
だが、風俗に来る客は、常識と理性のある人ばかりではなかろう。
中には、性欲は一丁前だが万年女旱りの変質者や、性犯罪予備軍と一目で見受けられるような男も1人や2人、客として出入するに違いない。
もしも、誰彼構わず、勘違いさせるような事を口走った日には、いつ犯罪に巻き込まれてもおかしくない。
或る客は目の色を変えて、しつこく連絡先を聞き出そうとするやもしれん。
もしくは、店の近くで待ち伏せされるかもしれん。
はたまた、退勤した時を見計らって、後を付け、自宅を特定するやもしれん。
そうなったら、もう取り返しがつかなくなるのは、目に見えている。
いっぱしに風俗店で働いているのなら、客の性質や、起こりうるリスクなどを把握し、軽率で言わないほうが安全なおしゃべりは控えそうなものである。
僕は風俗業界には全くの無知だが、営業用のリップサービスなんぞ、「ありがとうございました」とか「また来てね」とか言ってニコニコしておれば、それで充分だ。
それなのに、「付き合ってたかもしれん」などと気のあるようなことを言う。

だからといって、嬢の言葉は、仕事の枠を超えた、嬢の本心の素直な発露であると断定するのは早計である。
嬢はこの1時間で僕の性格や心理を読み取り、それを踏まえて、言葉の端々に僕の心を射止めるような甘言を散りばめ、常連の太客に作り上げていたに違いない。
あたかも陶器職人がろくろを回し続けて、ひとかたまりの粘土を器の形に仕上げるように、あの1時間のうちに、僕は嬢の手の内で丹念にこねくりまわされた挙げ句、立派な常連客に形作られていたのだろう。
そして、あの言葉こそがトドメの一撃、形の整った粘土を、薪が燃えたぎる釜にくべる最終段階だったのかもしれない。
もしそうだったら、恐ろしい。
本当に恐ろしい。
だが、常連客を拵えるのが目的だったのなら、残念ながら、嬢の作戦は失敗だ。
こっちはハナから性的サービスを受けるためと割り切っていたのだ。
棚からぼた餅みたいに、仲よくなって付き合えたらいいなどとは、全く期待していなかった。
お金を払って気持ちよくなったら、適当に挨拶をしてお別れ、という具合に進行すれば、こちらとしては後腐れもなく、もちろん悩むことなく、すっきりと別れられたのだ。
むしろ、それがリスクを冒すことなく指名客を増やす最善の方法になりやしないか?
あくまで僕の場合に限った話であるが、最低限の愛想だけ振りまいてくれたほうが、わだかまりがない分、気楽で身構えなくていい。
そうして、次に性欲を解消するあてが欲しくなったとき、先だってはお世話になった嬢の顔を思い出し、前と同じ店に入って、指名をするかもしれない。
なのに、あんなに人の心を揺れ動かさせるようなことを言われたら、もう僕は行けない。
初めて邂逅した時は、ただただ性的サービスを受ける緊張でしどろもどろしていたが、もし次行く時があれば、新たに生まれた心のもやもやを明らかにしてほしくて、とてもじゃないが、落ち着いていられなくなる。
感ずることのなかった期待や葛藤に苦しめられ、けれどもその苦しみを打ち明けるきっかけを見つけるのにさらに苦心し、結局は何もあきらかにできないままにすごすごと店を後にする。
最後には惨めな思いをすると分かっているのであれば、やはり僕は行かないほうを選んでしまう。
だから、あの一歩も二歩も踏み込んだリップサービス作戦は失敗だったのだ。
けれども、やっぱり、あの嬢の言動はどうしても演技には思えない。
僕の目には、嬢は裏表のない素直な子にしか映らなかった。
もし、あれが演技であったとしたならば、僕は人間不信になるだろう。
長年月をかけて培ってきた僕の人を見る目という奴も、相当の修正を加えなければならないだろうし、嬢は嬢で風俗と病院を辞めて、どこかの劇団に入団した方が、いつかは名女優として華々しく世に出ることだろう。
しかし、あそこまで親身になって色々とアドバイスをくれた人である。
アドバイスを頂戴しておいて、後々になってから、嬢の言ったことは全て嘘っぱちだと断定するのは、あまりにも非人情だ。
いやいや、しかしながら、そうした見方のすべてはそうあってほしいという僕の願望なのかもしれない。
だが・・・・・・けれども・・・・・・しかしながら・・・・・・やっぱり・・・・・・。
裏をかいたつもりでも、また裏が潜んでおり、その裏を看破したと思ったら、さらに裏が続いている。
永続的に裏をかきつづける螺旋階段。
どこまで行っても、果てがない。
ああ、いっそのこと、これが本当の現実の世界でなくて、弘兼憲史の怪腕によって描かれた『黄昏流星群』の物語であったならば!
おそらく数コマ目には僕と嬢はどこかで再会するように、作者は仕向けるだろう。
嬢は看護師をしていたという話だったから、場所はきっと病院だ。
作者は僕を車に衝突させ、担ぎ込まれた病院の病室で嬢とばったり出くわさせるようにするに違いない。
そして、次週には何らかの波乱があり、その次の週の最終頁には2人は結ばれて大団円となっているはずだ。
延々と繰り広げられる自問自答に疲れ果て、はては詰まらぬ妄想に走った僕は、ふうと深く息を吐いた。
よし、わかった。
仮に、もし仮にだが、事態は僕が都合良く解釈した通りだったとする。
つまり、嬢の言ったことは、営業目的でも何でもない、素朴な真心から出た言葉だった。
お互い打ち解けた末に、嬢は惹かれて、思わずあんなことを口走った。
だが、それで、その先は?
一体どうしようというのだ?
僕と嬢は、名実ともにただの風俗嬢と客の関係でしかない。
それ以上でも、それ以下でもない。
発展できる糸口を見付けようなんぞ、まるで雲を掴むような話である。
もし、無理繰りにでも糸口を発掘しようとしても、その道程はいずれ一線を超えて、先がなくなる。
だから、全てが素の心から出たとおりだったとしても、本気にせず、受け流して、忘れるほかない。
もしくは調子に乗って通い詰めて、身銭を切っていくかだ。
現実を、このくそったれな現実を直視しなければ。
僕には風俗なんざ贅沢に金をはたいていく余裕はない。
今までも、そしてこれからも、そんな余裕は生まれないだろう。
ならば、自分の取るべき行動は、自ずと分かるはずで
ある。
そもそも、あんなにさりげない一言だけで、ひとり盛り上がって、ああでもないこうでもないと考え込んでは、ころころ顔色を赤くさせたり青くさせたりしているのが、どうかしているのだ。
普通の人なら、すぐに忘れる。
そんな些細なことをしっかり記憶に刻みつけ、ぼんやり思い出すたびに、ああだこうだと呻いている。
真実はどうであれ、そうやって、いつまで経っても執着していること自体が異常で変質的であることを自覚した方がいい。
このまま突き進んでしまえば、それこそ犯罪者予備軍に成り下がってしまう。
未練たらたらではないか。バカバカしい。
いやはや、ちょっとした心のはずみで、マスターベーションにお金をかけようとしたら、まさか、これほどまでに複雑な心理戦にはまり込むとは思わなかった。
これほど他人の胸をこじ開けて、その内にある心を覗きたい衝動に駆られたのは、何時ぶりのことか。
まるで『カイジ』のEカードではないか。
もうね、浮かれるな、期待するな。そして、自戒せよ。
いよいよ独り相撲の熱がピークに達したとき、ふと嬢の言っていた写メ日記を思い出した。
スマホをポケットから出して、店のホームページにある嬢の写メ日記にアクセスしてみる。
たしかに日記は更新されていた。
『どんな選択であれ、お兄さんの人生にとって後悔のないように』、『最後に質問したとき、「ええええええ!!」って、なんなん!』、『めっちゃ楽しかった!』などと、無邪気な言葉がそこには散りばめられていた。
「あーいかんなあ・・・こんな・・・いかんいかん」
谷口ジロー孤独のグルメ』の主人公の台詞のようなことをひとり呟き、頭を掻いた。
それから、人が多く行き交う繁華街から場末の路地へと、とぼとぼ歩いて行った。
目下の懸案は、80万円にもなる借金の完済である。
その義務を無事につとめおおせたら、その時は彼女を作る努力をしよう。
でなければ、遍路に出よう。
白装束を身に纏い、大峰奥駈道や四国の周辺を、何もかも忘れるくらいにくたくたになるまで歩き回ろう
そうしよう。うん、そうしよう。
かくして僕は、童貞をこじらせる。
後日談は、ない。