働き始めて4年と6カ月(Happy New Year)

派遣会社の正社員として、大きな工場で働き出してから、4年と6カ月という年月が経った。
あっという間の4年半だった。
そして、面白くもなく、同じ毎日を繰り返すだけの、重みのない4年半だった。
同じ4年半でも、大学卒業してからの4年半と、工場生活でのそれと比べると、前者のほうがその内容においてはるかに濃密で面白かったことは、明らかである。
まず大学を卒業してからの8カ月がすごかった。
繊維卸売業の小さな会社の、名古屋営業所に配属される。
教育係の上司との軋轢、連日にわたる長時間のサービス残業、パチンコで現実逃避、東日本大震災の被災地探訪、1カ月間のうつ病休職、隠岐の島と鎌倉旅行。
復職すると上司らに反逆し、定時上がりを自主的に敢行する。
ブラック企業の記事を特集する地方新聞の取材を受ける。
仕事のミス(送り状の書き間違え)で激昂した上司に突き飛ばされたネタを、法テラスの弁護士に持ち込んで裁判を仕掛けようとするも、証拠が少なすぎるためにあっさりと謝絶される。
提訴を諦めると、潔く退職届を出し、京丹後市の炭焼き農家さんのところに弟子入りする。
退職後は、自分でこつこつ付けていた出退勤の記録を元に、4~6月の残業代を内容証明郵便で請求する。
わずか8カ月の間に、これだけのことがあったのだ。
京丹後市の炭焼き農家には1年と2カ月、お世話になった。
師匠の後ろにくっついて、炭焼きや稲作やにんにく栽培について教わり、離れの屋根裏で寝泊まりしていた。師匠の活動は地域では広く知れ渡っており、師匠の友人や知り合いがひっきりなしにやってきた。
師匠の仕事を引き継ぐという野心はとうに消え失せ、心は限界集落から離れてしまってからも、そんなことは周りの人たちにとっては露ほどにも知らないのだから、会う度に僕を応援してくれたり激励してくれたりする。
その度に、心が痛んだ。
唯一の救いは、僕が修行している間に、別の志願者がやってきたので、引き継ぎ手が全くいなくなったわけではなくなったことだ。
限界集落を下りてからは、築年数が半世紀も経っている木造アパートに住み、新聞配達とラブホテルの清掃という2つのアルバイトを掛け持ちして、なんとか生活していた。
その期間が大体10カ月だ。
その年の暮れに、僕は鳥取県三朝温泉で、仲居として住み込み生活を始めたのだ。
この地に骨を埋めるつもりなんぞ毛頭無かったのだから、京都の木造アパートは引き払わなかった。
三朝温泉は、旅館と温泉と川しかない田舎である。
温泉に浸かりにたまに来る分には、自然が豊かであり、静かで趣があっていいのかもしれないが、一時的といえども住むとなったら話は別である。
飲食店もコンビニもなく、買い物するにも不便で、生活の足が無ければ、温泉の外へ行くには本数の少ないバスを利用するしかなかった。
あまりの不便さに嫌気がさすあまり、たまさかに長い休みをもらった折には、わざわざ京都のアパートまで、自慢のスーパーカブを取りに帰ったほどであった。
三朝温泉には、6カ月間働き、それからのちは京都に戻って、デバックのアルバイトとして、数カ月を過ごした
これが大学を卒業してからの4年と6カ月である。
仕事と住む場所をころころ変えて、その度にいろんな人に出会ったのだから、得られる刺激とは工場生活のと比べて段違いである。
あまりにも濃密であったために、この4年半を10年間ぐらいのことのように錯覚してしまう。
ところが、工場勤めはあまりにも単調で、内容に乏しいので、もう4年と6カ月という月日が経過していたことに、驚きを禁じ得ない。
僕にとってはどうしてもまだ1年間くらいにしか思えないのだ。
これといって事件もなく、毎日顔を合わせる顔ぶれも変わらず、一日の仕事も全く変わらない。
生活にあらゆる変化をそぎ落とすと、体感できる時間の流れというのは、加速度的に早くなるようである。
また、この仕事を就くまでの職歴を概観してみると、長くても炭焼き農家さん宅に修行していた1年と2カ月が最長であった。
それが工場で働き出してから、あっという間に最長記録と並び、追い越し、今もなお記録を更新し続けている。
それは、借金の返済という何が何でも果たさなければならない責務があったのは一番の理由であるが、何よりもこの単調な仕事が気楽で、性に合っているからであろう。
携わる仕事がマニュアルさえ覚えて、標準時間内に作業することができれば、一人で完結する。
なので、営業職やサービス業のように特別なコミュニケーション能力もいらない。
無遅刻無欠席で、仕事もきちんとこなしておれば、上の人たちからとやかく注意されることもない。
同じ製造現場で働く人は大勢いるが、それぞれ与えられた個々の仕事に黙々と専念しているので、関係に摩擦が生まれるほどの人間的な交流は皆無である。
覚えなくてはならない事柄の9割方は大体1分間で終えられる作業のマニュアルである。
他にも提出しなくてはならないレポートとか、設備の簡単な点検などが残りの1割を占める。
現場に入ってきたばかりの新人は、作業に慣れるまで、手順と目視確認すべき点を思い出しながら練習しなければならないが、慣れてしまえば頭で考えずとも、身体が勝手にマニュアル通りに動くようになる。
それさえ間違わなければ、頭の中を自由にできる。
仕事のことではなく、自分の好きなことを考え続けられるというわけなのだ。
ただたんに単純作業だから、考え事や反省で頭がいっぱいになるのではなく、ごく普通の仕事をしていても、そうした「自己沈潜」の状態に陥ってしまう。
1つのことだけにがっつり集中しやすく、周囲のことは気を配れなかったり、目に入らなかったりする。
そのようなことを部活でアルバイト先で、たくさんの人に言われた。
工場の仕事というのは、僕にとってそうした短所でしかなかった特徴が長所として活きるなのだろう。
そうして仕事中に考えたことをブログの記事にしたり、日記のネタにしたりするのが、またこの上ない楽しみであったのだが、それは工場で働き出すまでの話た。
拘束時間が長く、生活リズムは逆転してまた逆転するの繰り返しの生活は、仕事の間考え事にどれだけ熱中できても、それを書き起こして表現する体力が残されていないのだ。
そうした事情もあって、ブログの更新は2018年7月を境に、投稿頻度ががくっと落ちた。
最初の1年はどうにかして更新していこうとあがいていたものだが、最近はもうあがくことも疲れてしまい、書かない苦痛にも慣れてしまった。
書かない生活を続けていると、文章力は格段に衰え、日を追う毎に考えることもしなくなってくる。
もしそんな機会があるとすれば、この工場時代は、後年「空白の時代」として、老いた僕の口から語られることだろう。
まさに今の僕は、会社の生産計画という大河の流れに翻弄されるがままになっている一葉の落ち葉である。
これから先、掬われるのか、沈んでいくのか分からない。
いつまでこの生活が続くとは限らない、だがその時が来たらいずれきっと書こう、と胸の内でなだめなだめしているのだが、とにかく来年いっぱいは確実に今の生活にしがみつかねばならないだろう。
先の見通しが簡単に割り出せてしまうところが、また悲しくてつまらないのだ。

2022年6月20日、僕はとうとう消費者金融会社プロミスの借金を完済させた。
プロミスの借金は2018年に50万円近くあったのを、労働審判で勝ち取った和解金で完済した。
しかし工場に勤め始めてから、土地を買ったり、車検代に充てたり、パチンコで浪費したりして、2021年には100万円以上に膨れ上がった。
それから自分の給料からこつこつ返済しつつ、社会福祉協議会で借りた総合支援資金や、コロナの自宅療養で振り込まれた医療保険代をそっくりそのままプロミスの返済に充てて、完済の運びとなったのだ。
借金は緊急小口資金20万円と、総合支援資金30万円で、合計50万円は残っているものの、返済の開始は2023年になってからなので、しばらくは借金の返済に頭を悩まされることはなくなる。
両肩に重くのしかかっていた借金が少し軽くなり、先の展望が少し明るいものになってきた。
そのはずだったのだが、1カ月後にはプロミスの借金は20万円を更新していた。
前回拵えた100万円の借金のきっかけは、ギャンブルではなかった。
山林の土地の購入費用に充てるために、数十万つまんだのがきっかけだ。
あとはたまたま打ってフィーバーさせた「大工の源さん」の誘惑に抵抗しきれなくなり、もりもり審査に審査を重ねて、50万円から80万円、80万円から100万円と借入残高を増額して、軍資金に充てたわけである。
結果的にパチンコによって借金を余計に膨らませてしまったのだが、もともと借金があったのだから、少しくらい増えても変わらないという具合に、自身に言い聞かせ、甘やかすのも容易かった。
だが、最後の20万円の借金は違う。
これは20万円全てがパチンコの軍資金として乱費されたのだ。
つまり、6月20日に一旦完済させてもなお、パチンコの毒牙は僕の心臓からすっかり抜け落ちたわけではなかったのだ。
ちょっとくらいなら大丈夫だろう、勝ったらすぐに返済すればいいという悪魔のささやきを振り切ることができず、5万円ばかし拝借したのが契機となり、気づいたときには20万円も膨らませてしまった。
この惨状に、さすがの僕も苦笑した。
純然たるパチンコをするためだけの借金、これはどうあがいてもごまかしきれない。
俗に言う「ギャンブル依存症」であることを認めないわけにはいかなかった。
この事実から目を背け続ける限り、僕の借金は一向に減らないし、それどころかもっと増える可能性も十分あり得る。
行き着く果ては、めくるめく借金地獄だ。
お遊びも潮時だ。
足を洗おう、そのために何か対策を打たなければ。
その2カ月前、僕は4年間暮らしていた社員寮から、派遣会社が借り上げているO市のアパートに引っ越していた。
ここは自転車で数分のところにパチンコ店が2店舗もあって、仕事が定時で終わればそのまま打ちに行けるという、ギャンブル中毒者にとってはまさに「餓鬼道」ともいうべき場所である。
だが、パチンコ店だけでなく、JRの駅にも近かった。
以前住んでいた寮なら、JRの駅に乗るために、1時間に1本のバスに30分揺られないといけなかったが、今では歩いて10分ほどで駅にたどり着ける。
なので、易々と県外に出かけられる。
脱ギャンブルを目指すために、その利点を活かさない方法は無かった。
電車に乗って、自助グループのミーティングに毎週参加するのだ。
自分の力ではもはやコントロールできない。
ギャンブル依存症と闘う人たちと一緒に耐え忍んでいかなければ、
自助グループと言えば、アルコール依存症の人たちが集う「断酒会」などを思い浮かべる人が多いだろうが、自助グループの種類はアルコール依存だけでなく、薬物依存やギャンブル依存のものも世の中にはある。
インターネットで会場を調べてみると、滋賀県にもいくつかあるのだが、開催する曜日はどれも平日なので、参加できる見込みは皆無である。
以前の寮なら、そこで諦めていただろう。
だが、今は駅が目と鼻の先にあるので、行動範囲は隣県にまで及ぶ。
その中から予定の合う自助グループに参加すればよい。
そんなわけで、参加できそうな自助グループの予定をいくつか見繕った末に、今通っているグループのミーティングに参加している。
毎週通うつもりでいたが、仕事が土曜日出勤が増えたことにより、2週間に1回へと頻度が減ってしまった。
それでも8月25日からずっとパチンコをしていない。
低貸玉に切り換えたわけでもない。
そもそも、パチンコ店に入ってすらいない。
この4カ月というもの、音と光と振動が脳みそを揺さぶり、大量の快楽物質を放出させることは無くなったが、同時に数万円失って後悔と自己嫌悪に苛まされることも無くなった。
少しずつだが借金は減り、貯えも増えている。
生活の舵を取り戻しつつあるという実感を覚えるのは、何時以来のことだろうか。
自助グループの参加はほんの小さな一歩には違いないだろうが、これがやがて大きな糧につながることを、僕は期待する。

自助グループに参加して分かったのは、僕はわりかし深い痛手を被らないうちにやってきたということだ。
たびたびプロミスからお金を借りて、パチンコを打って、完済してはまた借りてパチンコを打つというサイクルを循環しながら、今日までずるずるとやってきたのだが、それでも他の参加者と比べると、全然重症ではないのだ。
癌に例えると、早期発見、ステージ1の段階だろうか。
だが、他の参加者においてはそれより上のステージに登り詰めてしまった人がごろごろいる。
いや、むしろそういう人ばかりではなかろうか?
たしかに、僕のやってきたことも程度が悪い。
だが、少なくともパチンコのために、奨学金を全部使ったはないし、身内に肩代わりしてもらったのにまた同じだけの額の借金をしたこともないし、銀行から1000万円も借りたこともないし、生活保護に陥ったこともないし、会社の金を横領して警察に捕まったこともない。
以上のことは、いくつかのギャンブル依存症の本に載っていた体験談を引き合いに出したまでである。
自助グループで見聞きした話は、余所で口外しないこと、つまり「持ち帰らないこと」が原則なので、あまり詳しいことは話せない。
だが、とにかくそのようなステージ3、4の人たちの話を聞いたうえで、自分の身の上と比べると、自分のほうがよほどマシに思えてくる。
そもそも、どうして僕はステージ1の段階で自助グループに救いを求めることができたのかというと、数年前にパチンコの悪癖に悩まされた末に、ギャンブル依存症についての本を読んで、自助グループというものを知ったからだ。
その頃は苦しんでいたにもかかわらず、やはり自分の力でどうにかできると過信していたので、書かれていたことを知ったけれども、深刻に受け止めることはできなかった。
しかし、明らかにパチンコで生活が狂いだしてきた兆しが見えてきたとき、すぐさま自助グループの存在を思い出したのだ。
今度は昔と心構えが違っていた。
昔はてんから認めてはいなかったが、今は自分こそが病気だという自覚が芽生えている。
だからこそ、早いうちに、まだ生活をやり直せる時に、依存から回復へと舵を切ることができたのだ。
知っていたから、やり直せた。
だが、多くの参加者はギャンブルで財産も家族も失って、借金で首が回らなくなり、その結果中間施設に送られてから、ようやく自助グループにつながるという道筋を辿っている。
骨の髄までギャンブルで焼け尽くされてどうにもならなくなってから、ようやく自助グループに一筋の光明を見いだせたのだ。
自助グループの参加者に優劣も上下もない。
ギャンブルをどれだけ止めていようが、借金が多かろうが少なかろうが、ギャンブル依存症という宿痾を抱えている時点で、みんな同じである。
だが、もし彼らと同じ深みにまで落ち込んでしまったらと思うと、背筋にヒヤリと冷たいものが走るのも、また事実であると認めなければならない。
とにかく、ギャンブルをしないという、ただそれだけで得られる幸せを噛みしめて、2023年も生きていきたい所存である