のんき者、インドネシアに行く 4

ベッドで気絶するように眠りこけてから、6時間後に目を覚ます。
ねぼけまなこで、天井で見慣れぬシーリングファンが回転しているのを見て、自分は今インドネシアにいることを思い出す。
腕時計を見ると、時間は21時を回っていた。
何かしら行動を移さないといけないのだろうが、どこから手をつけるのが最善なのかが分からない。
とりあえず、シャワーを浴びて、汗を流すことにする。
スーツケースを開いて、着替えやらタオルやらを用意するが、シャンプーを持ってくるのを忘れてしまった。
仕方ないので、頭髪もボディーソープで洗うことにする。
シャワーは前述したように、お湯が出ない。
蛇口を捻れば、固定式のシャワーヘッドから水が出るだけの、シンプルな仕組みである。
夏真っ盛りといえども、インドネシアは日本より10度近く気温が低く、湿気もすくない。
まるで初秋の夜に水にかかるようなものだから、冷たくて、体に少々堪える。
宿泊料金が安いのは助かるが、もし次に行く機会があれば、お湯のシャワーが出る宿に泊まろうと思った。
シャワーを済ませて、スマホをチェックすると、LINEに着信が来ていた。
宛先は、以前勤めていたインドネシア技能実習生からのものだった。
彼が勤めていた時期に、新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、そのため新たな実習生の受け入れを停止したため、彼は1年間だった任期が延びて、もう1年間日本にとどまって働いていた。
その結果、片言に話せる位に日本語でのコミュニケーション能力を身につけることができた。
実は、一緒にバリ島に行くはずだったインドネシア人と連絡が取れなくなったとき、駄目元で、彼に付いてきてもらえないかLINEでお願いしてみたのだ。
案の状断られたが、その折に旅行の日程を知った彼が、わざわざ連絡してきてくれたのだ。
LINEで電話をして、それから1時間くらい話し込んだ。
彼のほうでは、日本で稼いだ金で土地と家を買い、2人目の子供を産んだ。
それから年末には、韓国へ技能実習生として派遣される予定だと言って、韓国語の挨拶を披露してくれた。
日本には戻らないのか尋ねてみたら、給料が韓国のほうが高いようなので、そちらへ行くとのこと。
彼との通話を終える時は、夜の23時頃。
最後に食べ物を口にしたのは、朝にチャンギ国際空港を発った飛行機での機内食のみ。
それから12時間以上、何も食べていなかった。
いかんせん空腹に耐えかねたので、持ち込んできたサンダルに履き替え、闇夜に沈むウブドの街に出る。
昼間は土産物の屋台がひしめき合い、客引きの呼び声で賑わっていた路地も、夜間は人気もなく、ひっそりと静まりかえっている。
その路地を抜ければ、道路を挟んだ向かい側に、「Mini Mart」という24時間営業の小さなコンビニがある。
とりあえず、そこで食べ物と飲み物を買うことにした。
初めて外国のコンビニはどんなものなのかとわくわくしながら、店内にある商品を物色する。
スナック菓子やチョコレート菓子、飲み物などのラインナップは小さい店舗ながらそれなりに充実していたが、日本のようなおにぎりや弁当は一切販売していなかった。
そうやらがっつり腹を満たせるというわけにはいかなさそうである。
仕方なしに、パンとスナック菓子をかごにいれ、それと「AQUA」という2リットルのミネラルウォーター、それと再び眠れるようにビールを数本買った。
この時、ビールのショーケースを記録のためにスマホで写真を撮っていたから、明確に価格を書けるのだが、インドネシアで有名な「BINTANG BIR」は330ml缶は日本円で約280円、500ml缶は約380円であった。
また日本のコンビニでも販売しているスミノフアイスは約325円である。
インドネシアは給料は安いが、それに応じて物価も安いと耳にしていたが、アルコールに関しては日本の値段とほぼ同等であり、ずば抜けて安いというわけではなさそうだ。
僕が物色している間に、アメリカ人かオーストラリア人か分からないが、白人の若者の団体が入ってきたから、狭い店内は余計に窮屈になってしまった。
彼らがめいめい水やら酒やら買い込んで、ようやく僕の番になった。
購入するものがたくさんあるのはいいが、どうやらインドネシアはビニール袋は元々ないらしく、レジでエコバッグの購入を勧められた。
そんなことは露ほどにも知らず、財布だけを握りしめて、ぶらりとやってきたものだから、どうしようかとどぎまぎした。
だが、ロスメンはすぐそこだし、エコバッグは一応スーツケースの中に入っているので、買ったものは全部抱えて持ち帰ることにした。
去り際に「ありがとう。おやすみなさい」と覚え立てのインドネシア語で挨拶をして 陽気な日本人を演じた。
翌朝、部屋のドアを開けると、外はおだやかな日和であった。
せっかく宿泊料金に朝食が含まれているのだから、さっそく朝食と食べたいところであるが、注文の仕方がよく分からない。
とりあえず、1階まで下りて、ロスメンのおかみさんを探す。
おかみさんは、家族用の居住スペースのような場所にいたので、声をかけると、ロスメンの壁に貼ってあるメニューから選んでくれとのこと。
少し戻って壁を確認すると、たしかに朝食メニューが貼ってあった。
とりあえず、1番上のバナナケーキとコーヒーのセットをおかみさんに注文し、ついでに「今日は天気がいいですね」と、これまた話しかけてみる。
僕のインドネシア語が、おかみさんに通じて、「そうですね」と答えてくれたので満足して、階段を上がって自室にもどる。
自分の部屋の前には机とベンチ、それに灰皿もある。
ロスメンの最上階である3階の部屋をあてがわれたため、そこから青空と街並みがよく見えた。
煙草を吸いながら眺めるには、気持ちのいい景色である。
3年ほど前に禁煙外来に通院して以来、喫煙習慣は無くなったのだが、こうした景色をぼんやり眺めていると、このときばかりは煙草を吸わなくなったのが惜しく思われてきた。
そのうち、階下からおかみさんの娘さんと思しき女性が朝食を運んできた。
バナナケーキと、コーヒーと、フルーツである。
注文どおり、コーヒーはブラックであった。
インドネシアではコーヒーに砂糖を入れて飲むのが普通である。
だから、何も言わず「コーヒー」とだけ言うと、甘いコーヒーが運ばれてくるので、僕みたいなブラックコーヒーしか飲まない人は、あらかじめ「ブラックコーヒー(kopi hitam)」とか「苦いコーヒー(kopi pahit)」と言わなければならない。
簡単な朝食を済ませると、僕はロスメンを出た。
さっそくウブドの街を観光したいところなのだが、まずやらねばならないことがあった。
それは電子マネーカードの購入である。
旅行中に使える現金が約3万円しか所持していなかった僕にとっては、運賃が約44円の公共バスに乗れる電子マネーカードの入手は必須である。
本来ならばングラライ国際空港で手に入れるつもりだったのだが、失敗に終わった挙げ句、客引きのタクシーに乗って、相場より1,000円高い5,000円の料金を支払ってしまった。
もしこのままウブドで過ごす3日間を電子マネーカードなしで乗り切らねばならないとしたら、タクシー代だけでお小遣いの大半を失ってしまうことになるし、まかり間違えば、お金がなくなってングラライ国際空港に戻れない可能性もある。
だから何よりもまず優先すべきことは、電子マネーカードなのだ。
購入できる銀行はBNI銀行、BCA銀行、Mandiri銀行、そしてBRI銀行の4行である。
そして有り難いことに、ウブドは観光名物がたくさんある人口密集地域であるためか、4行全ての支店が揃っていた。
これならすぐに購入できるだろう。
僕はスマホで銀行の所在地を調べながら、そんなふうに高を括っていた。
だが、それは僕の甘い見込みだった。
とりあえずBNI銀行に行って、警備員に片言で尋ねてみたが、何故かやんわりと追い返された。
追い返された理由は分からず、首を傾げながら次のお目当てのBCA銀行に行って、同じように警備員に電子マネーカードが買いたいと伝え、一度は中の待合へ通されたものの、順番を待っているうちに、警備員に肩を叩かれ、追い出されてしまった。
理由は分からない。
僕の付け焼き刃で仕込んだインドネシア語では、如何せん意図が伝わらなかったのかもしれない。
もしくは電子マネーカードの購入条件が知らないうちに変わって(外国人の購入を禁じる等)、その情報がまだ日本語では出回っていないのかもしれない。
ウブドの街は歩き回るには広すぎる。
電子マネーカードを求めて、同じ大通りを行ったり来たりしているうちに、あっという間に2時間が過ぎてしまった。
ロスメンから銀行まで歩いて行くにはちと遠いが、それも電子マネーカードを手に入れるまでの辛抱だという具合で、すっかり当て込んでいただけに、2度も続けて空振りの結果に終わったので、さすがの僕も苛立ちを抑えきれずにいた。
3行目のBRI銀行にたどり着く。
玄関に立っている警備員に声をかけ、片言で用件を伝えると、今度はすんなりと中に通してくれた。
それから、長椅子に座っていると、女性の銀行員がインドネシア語でペラペラと説明してくれた。
何を言っているのか分からない。
だが、おそらく電子マネーカードの説明であろう。
カードの発行手数料と課金額を含めた金額はいくらにするのか?
きっと彼女はそう語りかけているにちがいない。
「7万ルピア! 7万ルピア!」
僕はそう答えて、財布から紙幣を取って、銀行員に手渡した。
銀行員は笑顔で頷いて一旦その場から離れた後、電子マネーカードとレシートを持って戻ってきた。
ようやく手に入れられた嬉しさに、僕は何度も感謝を述べた。
これでやっと遠くまで移動できる手段を確保できた。
それに、帰国するときになっても、客引きのタクシーに乗って、ぼったくられる恐れもない。
公共バスに乗れば、乗り継ぎ1回でたったの88円で空港まで行けるのだ。
ようやく観光できる準備が整ったところで、僕はさっそく公共バスに乗ってみることにした。
目的地はモンキーフォレストである。
グーグルマップで調べてみると、「ジャラン・ラヤ・ウブド」という名の道路沿いにあるバス停から、バスに乗ってモンキーフォレストまで行けるという。
バス停は、道路沿いにあるバスの絵が描かれた小さな標識のある場所である。
時刻表はない。
調べたところによれば、大体10分おきでバスがやってくるのだそうだ。
そのネットの情報を信じて立ち尽くすこと数分間、赤色のバスがやってきて、バス停のところで停車した。
前方のドアから乗り、電子マネーカードをカードリーダーにタッチさせて、先に支払いを済ませる。
それから、運転手に「モンキーフォレスト・ウブド」とバス停の行く先を告げる。
ネットで書かれた手順通りにやるが、なにぶん初めてのことなので、間違っていたらどうしようかと少し不安になったが、運転手はなんのこともなく頷いたので、ほっとして、席についた。
前方のドアから乗って後部のドアから降り、料金は前払いで、降車ボタンは無く、行き先のバス停を運転手に告げる。
日本のバスとは勝手がまるで真逆なので面白い。

Mの踏み倒し エピローグ

年が明けて、2024年になった。
告発状と諸々の必要書類を引っ提げて、N警察署に刑事告発してから約6カ月の月日が経ったわけだ。
あれ以来、何の音沙汰もない。
なにぶん僕も警察の捜査については、全くの門外漢であるので、告発状を提出したら、2,3日のうちに逮捕してくれるものとばかり思っていたが、どうもそういうわけにはいかないようなのだ。
告発状を提出した際に、何かしら供述をお願いするときがあれば、その際は連絡しますという警察官の言葉を思い出して、夏期休暇の間はインドネシア旅行のため出頭できない旨を電話で連絡したのが、昨年の8月上旬である。
その折に、捜査はどうなっているのか、それとなく尋ねてみたところ、「外堀を埋めつつ着実にやっています」という返答があった。
ただ、捜査内容は機密事項のため、具体的なことは何も知らせてくれなかった。
それから半年が経った今となっても、何一つ連絡はないのだから、相当長い時間をかけて捜査をしているものと思われた。
ただその一方で、もしかして僕の告発が無視されているんじゃないかという不安も同時によぎる。
無論、僕が提出したのが単なる被害届であるならば、将来の公訴提起に備えるための捜査を放置されていてもおかしくはない。
被害届の場合、検察官に書類送検する義務が発生しないからだ。
刑事告発の場合は、その義務から逃れられない。
起訴されるか不起訴に終わるかは、検察官の判断に依るが、とにもかくにも、刑事告発を受理してしまった以上は、検察官の判断の俎上に載せるために、警察は捜査と書類の作成に尽力しなくてはならないのだ。
しかしながら、だから大丈夫、大丈夫なはずだと、自らに言い聞かせて、はや半年である。
この間ずっと電話も手紙もないので、さすがの僕でもよもや捨て置かれているのではなかろうかという疑心暗鬼を生じてしまった。
民事執行法違反に関するニュースをネットで検索して、裁判所の呼び出しを無視してから、逮捕・書類送検されるまでの時間を調べると、およそ6カ月から8カ月である。
だから、落ち着いて考えてみれば、これから警察の捜査が動き出すのかもしれないし、今日明日にも検察庁から処分通知書が入った封筒が送られるのかもしれない。
しかしながら、そんな甘い予想の上にあぐらをかいていては、あとになって馬鹿を見る結果に陥るのかもしれない。
そろそろ、こちらから確認の電話を、つまり捜査状況を確認する電話を、N警察署にかけてみてもいいのかもしれない。
これまで何度もN警察署に電話をかけて、担当者にどうなっているのか尋ねてみようと思ったが、そんな催促の電話をかけたところで捜査が進展するわけでもなく、むしろ迷惑になるだろうという見当がつくのでやめておいた。
しかし、刑事告発してから、半年間我慢したのだ。
告発者の心情を鑑みるに、刑事告発をしてから半年後にようやく催促の電話を一本入れてくるのも無理からぬことであるという具合に、警察の担当者も事情を斟酌してくれるに相違ない。
そんなことを考えながら、日用品の買い出しから自宅のアパートに戻ってきたのが、1月19日の午後である。
いつものように何気なしにポストを覗くと、1通の茶封筒が入っていた。
「んん!?」と驚いて、茶封筒の宛名を見ると、検察庁支部の文字が記載されていた。
この瞬間、一気に胸の高鳴りが頂点に達する。
刑事告発の半年後に検察庁から郵送物が届くというのが、とどのつまり、その中身は十中八九、処分通知書であるということ。
捜査を終結した警察が検察に書類送検し、送られてきた証拠書類を元にして検察庁が起訴にするか不起訴にするか、そのどちらかの処分の結果が記載された紙が入っているということだ。
緊張で激しくなった心臓の鼓動を感じながら、とりあえず早足で自室に駆け込む。
そして、椅子に座って、深呼吸しながら、慎重に封を開ける。
Mさんが借金を踏み倒してから、1年と4カ月。
その間の努力が報われるかどうかは、まさにこの1枚の紙にかかっている。
中に入っていた三つ折りの紙をゆっくりと広げ、書かれた文字をさっと上から読み進める。
「処分区分 起訴(略式起訴)」
一番下にそう書かれた文字を見つけたとき、僕は雄叫びを上げて、ガッツポーズをした。
そうして、端の人が見れば気が触れた人であるかのように、ゲタゲタと高笑いした。
これが僕にとっての、新年の初笑いであった。
Mさんは悪いことをしたから、起訴されるのも当たり前だと、僕の異様な喜びようを怪訝に思われるかもしれないが、この国において被告人を起訴できるのは、決して当たり前のことじゃない。
刑事告発をしてから、僕は関連する法律を本で読んで調べて、そこでやっと分かったことなのだが、検察官は警察官から送致された事件の全てを起訴するわけではないそうじゃないか。
例えば、令和5年犯罪白書を参照すると、検察官が事件の終局処理した人員のうち、起訴されたのはたったの32.2%しかない。
家庭裁判所に送致された少年の被疑事件のわずかな例を除けば、半数以上が不起訴処分となっている。
不起訴処分を受けた者(過失運転致死傷及び道交法違反を除く)を理由別で分けると、疑いはあるが起訴しうるレベルに達していない「嫌疑不十分」の21.8%に対して、「起訴猶予」が69.2%もある(残りは「告訴の取消し等」4.1%、「心神喪失」0.3%、「その他」4.7%である)。
悪いことをすれば、逮捕されて、裁判にかけられて、刑務所に行くもんだと、このように刑事訴訟の実態を素朴に捉えていた僕にとって、この「起訴猶予」という概念に出くわしたときには、ひどくく首を傾げたものであった。
どうして被告人の嫌疑がしっかりあるにもかかわらず、裁判に待ったをかけるような真似をするんだろう?
真犯人が別にいるのが判明していたり、証拠が不十分であった際に「嫌疑不十分」として、不起訴処分となって釈放されるのは、常識に照らし合わせて理解できる。
しかし、嫌疑や証拠が起訴水準に達しているにもかかわらず、それでもなお検察官の裁量で「起訴猶予」という起訴しない判断をするというのは、どうにもこうにも腑に落ちない。
しかも、その「起訴猶予」が不起訴の理由のたった数%ならまだしも、過半数の7割近くに相当するのだから、驚きである。
起訴猶予」の根拠は、刑事訴訟法248条にある。
「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」というのが、その内容だ。
それからネットで情報を収集したり、検察審査会の本を読んだりして、今回の民事執行法違反のMさんが果たして不起訴処分、つまり「起訴猶予」(証拠はあるので「嫌疑不十分」はあり得ない)に該当するのか調べてみたが、確固たる知見には出会えなかった。
分かったのは、警察の捜査が終結して、身柄や書類が検察官に送致されたとしても、約30%の起訴を検察官が選ばなければ、裁判にかけることができず釈放となるのだ。
一時はパチンコにのめり込んだ者としては、この3割を引き当てる辛さや難しさというのは、体感で理解しているつもりである。
無論、救済策はある。
例え不起訴処分であったとしても、検察審査会という検察官とは独立した組織に申し立てれば、検察審査会は検察官の不起訴処分の内容について厳正に審査するのだ。
その結果、「起訴相当」「不起訴不当」の結論に達すれば、検察官は
事件を再捜査して不起訴処分の再考を義務づけられる。
しかし、検察審査会の審議は年に4回しか行われていないし、「起訴相当」「不起訴不当」の結論になって、再捜査する過程を考えると、そのぶん解決に時間がかかるのが難点である。
確率は少ないが、願わくばすんなり起訴処分が下されてほしいというのが正直な思いだ。
だが、ひとたび起訴という処分が下されれば、その恩恵は大きい。
日本においては、確実に有罪となる見込みが十分にあるとき起訴をする、という運用が確立されている。
それ故に、起訴されたら最後、99.9%有罪と決まっているのだ。
だから、最後の勝負は公判ではなく、検察官が判断する処分にかかっていのだ。
そして念願の起訴処分である。
長い長い努力がようやく報われた瞬間であった。
略式請求ということは、懲役6カ月以内もしくは50万円以下の罰金の刑事罰のうち、罰金が選ばれたということになるだろう。
とにかく、罰金の徴収については検察官にお任せするとして、それとは別に、今一度僕はやらねばならないことがあった。
事件の保管記録の閲覧と謄写である。
事件の被害者や告発人であれば、検察庁に申し出れば刑事事件の記録を閲覧したりコピーすることができるのだ。
そこには供述調書など、警察が行った捜査の記録も含まれている。
次の目標に備えて、必要な知識を蓄えるべく、ぜひとも事件の保管記録を入手しておかねばならない。
次の目標というのは、もちろん再度の財産開示手続の申し立てである。
ところが、結果から述べると、すぐにはこの記録を手に入れることはできなかった。
22日の月曜日になると、さっそくアポなしで検察庁に駆け込んだものの、事件記録は簡易裁判所にあり、さらに2週間の正式裁判の請求期間が過ぎて判決が確定してからではないと、閲覧できないと言われて、断られた。
さらに判決が確定してから、罰金の振込用紙を相手方に郵送するので、罰金を支払ったかどうか判明する時期も兼ねると、1カ月位は待ってもらわないといけないようであった。
ダメ元でその足で簡易裁判所に行って尋ねてみたものの、同様の理由で断られた。
なので、1カ月後に改めて電話で話を通した後に、2月22日に検察庁に向かった。
事務室に通されると、保管記録閲覧請求書と謄写申出書に、署名と捺印をし、処分通知書と身分証を提示して本人確認をすませた後に、事件の保管記録の分厚い束を渡される。
書類の隅にあるノンブルは、187を数える。
それを持って、事務室の隅にあるコピー機で1枚1枚コピーしていく。
白黒コピーは1枚20円なので、全部印刷するとなると、およそ3,800円にもなるが、貴重な記録なので金に糸目はつけない。
そういう次第で、昼休憩を挟みつつ数時間かけて、書類を印刷していった。
保管記録は大別して、略式命令と起訴状、僕がN警察署に提出した告発状と証拠書類の写し、N警察署の照会を受けて地方裁判所支部が交付した事件記録一式の写し、捜査報告書、N警察署の照会を受けて簡易裁判所が交付した事件記録一式の写し、写真撮影報告書、犯罪捜査報告書、捜査関係事項回答書、供述調書である。
これらの記録を読んでまず分かるのは、警察は決して僕の告発状を蔑ろにしていたわけではなく、早い段階で捜査を進めていたことだ。
「外堀を埋めていく」という警察の言葉は、嘘ではなかったのだ。
まず、地方裁判所支部が事件記録一式を交付したのは8月10日、簡易裁判所の場合は8月15日である。
つまり、それ以前に警察は捜査を開始して、各裁判所に照会を求めていたことが分かる。
それから2カ月後の10月18日の早朝に、Mさんのアパートに捜査員が押しかけ、Mさんの立ち会いのもと、家宅捜索を行い、証拠品を押収している。
ちなみに、その様子は写真撮影報告書において、12枚の写真に収められている。
警察官(報告書では司法警察員)がMさんに捜索差押許可状を呈示しているところの写真。
アパートの室内をそれぞれ東西南北の4方向から撮影している写真。
ベッドに置いてあるスマホを、正座しているMさんが人差し指で指示している状況の写真、スマホを近接撮影した写真、裁判所からの封筒や書類など押収された証拠品をMさんが人差し指で指示している状況の写真、押収品を近接撮影した写真、などなどだ。
その後すぐにMさんは警察官と同行し、警察署で取調べを受けたようだ。
供述調書を確認すれば、家宅捜索のあった10月18日と、10月30日に取調べを行ったことがうかがえる。
そして、Mさんの供述を裏付けるべくMさんの派遣元企業にタイムカードの照会をし、11月6日に派遣元企業からその回答を得ている。
それから書類送検した後に、年が明けて1月15日に検察庁に呼び出されて翌16日に略式起訴が決定されたのだ。
なので、こういった流れで7月の刑事告発から1月の起訴まで、抜かりなく捜査してくれていたのだ。
このような資料や記録から、警察の捜査の実際を垣間見ることができたのは、本当に貴重な体験だと思う。
それによもやこの場でMさんのご尊顔を拝むことができるとは思わなかった。
僕としては、供述調書だけでお腹いっぱいになったのに、さらにMさんの近状を知れる写真も付いてきたのだから、印刷しているとき、どれだけ笑いを堪えるのが苦しかったか分からない。
家宅捜索の最中のMさんは、少し緊張の面持ちを浮かべながら、押収品を指さしていた。
その間抜けな顔を見れただけで、胸がすくような気持ちになる。
警察署での取調べの内容は、全て供述調書に記録されている。
警察官がMさんの語った内容を書き起こした文章を、Mさんに読み聞かせて、誤りがないことを確認させた上に、指印をしているので、内容の正しさは保証されている。
供述調書は自宅に持ち帰ってから、じっくり目を通した。
今回印刷した記録全体の中で、一番読みたかったものがこれだ。
ここにこそ、僕が数々の法的処置を繰り出してきた1年と4カ月の間を、Mさんの視点から見た新事実が詰まっていると期待していたからだ。
民事執行法違反の被疑者として、警察署で取調べを受けるに至った経緯と、犯行に及んだ動機は何だったのか?
あのときはわくわくしながら、紙面に目を走らせたものだった。
だが、そこに書かれていた経緯にせよ動機にせよ、借金を踏み倒して逃げ回っている人なら誰でも語れるような陳腐極まりない内容だった。
もしかしたら「Mの踏み倒しSide-B」とも呼べるような、告発した僕をあっと言わせるような内容を期待してただけに、読後の感想はまさに「肩透かしを食らった」の一言に尽きる。
ひとまず、Mさんの口から語られた経緯について簡単にまとめていきたい。
Mさんは平成29年か30年に派遣先の工場で働き始め、その2年後くらいにMさんと同じ持ち場に僕が派遣されてきた。
もともと競艇やスロットといったギャンブルが好きであったMさんは、給料のほとんどだけでなく、消費者金融からの借金までもギャンブルに注ぎ込んでいたため、いつも生活がギリギリであった。
そんな折、会社のグループラインを見ている時に、「のんき者さんに頼んだらお金を貸してもらえないかな」「人が好さそうだし、頼んだら断れないタイプやろうな」と思って、僕からお金を借りることを思いついた。
借り始めた当初は月に1回、2~3万円であり、きちんと返していった。
しかし、次第にルーズになっていき、「給料が入れば1万円だけ返したりして、返済する誠意を見せつつ」、3~4万円を借りていた。
無論、そのお金は競艇やスロットで溶けていった。
そのうち、借金が30万円になった頃には、Mさんのなかで完済する意思は完全に消失していた。
Mさん曰く、「それまでは、少しずつでも返していかなきゃと思っていましたが、もうこんな大金返せるわけないやと諦めていました」。
にもかかわらず、ギャンブルの種銭ほしさに寸借を繰り返していくうちに、借金は50万円近くにまで膨れ上がっていた。
理由は伏せ字になって読めないが、僕の記憶を掘り起こせば2022年8月下旬にMさんはパニック障害が悪化したため、派遣先を退職した。
そして、次の派遣先が決まった時には、「仕事先が変わって会うことがなくなったら、このまま逃げれる」と、踏み倒すことしか念頭になかった。
仕事も住所も変わり、ついでに48万3000円の借金も踏み倒せて心機一転という時に弁護士事務所や裁判所から、何通か封書がHO市のMさんのアパートに届くようになる。

届いた封書は真剣に読んではいなかったものの、全て封を開けて目を通している。
そこに書かれていたのは、「いついつまでに、50万円近くの借金を振り込んでください」「裁判所にいついつ出頭しなさい」というような、返済の督促や裁判の呼び出しであった。
しかし、Mさんは「どうせ50万円もの大金を払えへんのに行く意味なんてないやろ」と開き直って、督促にも出頭にも応じなかった。
それからMさんは派遣元を変え、N市に引っ越した。
この時に、HO市で受け取った弁護士事務所や裁判所からの封書を、全て処分している。
2023年3月にN市に居住地を移してからも、4月と5月に1通ずつ裁判所から特別送達の郵便が届く(財産開示実施決定正本と財産開示期日呼出状)。
中身は確認しているものの、どうせのんき者の借金のことだろうと高をくくり、相変わらず文面はあまり真剣に読んでいなかった。
財産開示期日呼出状には期日と出頭場所が記載されていたものの、「初めから出頭する気がなかったので、自分がいつ呼び出されているかは、すぐに忘れて」しまっていた。
この取調べにおいて呼出状を再度確認すると、一番下に出頭しなかった場合に科せられる刑罰の委細が記されていたが、Mさんは当時しっかりと読んでいなかったため、記憶になかったという。
ちなみに出頭日は普段通りに仕事に行っていたことは、派遣先のタイムカードで確認できる。
最後に「今後は、二度とこのような事態にならないよう、裁判所の呼び出しにはきちんと応じ、抱えている借金も返済をしていこうと考えています」と裁判と借金にしっかり向き合う意思を表明したところで、2日間にわたって行われた取調べの供述調書を締めくくっている。
まあ、こんな反省は今さらあてにならないし、信用する方が馬鹿であるが。
以上が、Mさんの供述の概要である。
彼の供述の全体からにじみ出るのは、降参のムードであった。
それは度々繰り返して出てくる「出頭してもしなくても同じ」「差し押さえられたらその時は仕方がない」という供述から、それと知れる。
僕がネットで情報を漁り、ときには夜勤明けに裁判所に出向き、いろんな法的手段を模索しているその裏で、Mさんは完全に思考を停止させ、続々届く裁判所の封書から目をそらしていただけに過ぎなかったのだ。
てっきりMさんも悪知恵を働かせて、僕と張り合おうとしているものとばかり想像していたので、封書の内容をろくに読まず、無闇に受け流してきただけだったとは露にも思っていなかった。
それに、僕が探偵を雇うに至った現住所の変更のことが、まったく述べられていない。
この点については、民事執行法を犯す経緯の本筋から逸れるので、供述されていないのは仕方ない。
とはいえ、探偵に税込みで16万5000円の経費を支払った身としては、少額訴訟の訴状を裁判所が郵送した時点での、本当の現住所はどこだったのか、なぜ住民票を移籍させなかったのか、その真相を洗いざらい吐いてもらいたかった。
でなければ、僕の16万5000円が浮かばれない。
しかしながら、度重なる引っ越しや現住所の変更で特別送達から逃げ回った彼ではあるが、さすがに警察のご厄介になるのは想定外であったらしい。
その驚きは、調書の締めくくりに近い箇所にある「財産を差し押さえられることはあっても、まさか、刑事告発されるとは思ってもいませんでした」という自白の中に、ありありと表現されている。
まあ、なにはともあれ、Mさんに前科をつけられる運びとなって、僕は嬉しい。
ただ不服があるとすれば、その判決の内容である。
罰金が科せられるのなら、その金額は50万円以下である。
50万円「以下」とあるので、その範囲内なら、値段はいくらであっても構わないのだ。
とは言うものの、5万円や10万円はさすがに無いだろうと踏んでいた。
30万円、いや40万円くらいは搾り取ってくれるものだろうと思い込んでいた。
しかしながら、蓋を開けてみれば罰金10万円と、びっくりするほど少額におさまってしまった。
Mさんからすれば、48万3000円の借金が10万円に減額されたようなものだろう。
ただし、この罰金は分納ができない。
罰金は一括で検察庁に納めなければならないのだ。
もし一括で返済できなった場合の処遇については、「金5000円を1日に換算した期間被告人を労役場に留置する」と判決文に但し書きされている。
1月16日に略式請求が決まり、同月22日に略式命令が下され、2月8日に正式裁判の請求期間が終わり、判決が確定した。
それから、すでに2週間が経過しているのだから、もし首尾よく手続きが運べば、Mさんの自宅に納付書が届けられ、すでに返済されているはずである。
しかし、事件の記録を印刷した2月22日の時点では、まだ罰金は納付されていない。
派遣先でのMさんの行動を見るに、一括で即座に10万円を納付できるほど資力はないし、立て替えてくれる借主も存在していないのは重々承知していたので、この結果を聞かされても何とも思わなかった。
ただ、労役場送りにするならするで、早いうちに収容の手続きを取ってほしいのだ。
そのあたりを検察官に尋ねても、現状はまだ納付されていないとしか答えられないらしい。
無論、今回の略式命令で、僕は満足したわけではない。
もう一度、財産開示手続を申し立てたいのだ。
罰金10万円で水に流せるはずがない。
10万円で財産開示手続から手を引けるほど、48万3000円は安くないのだ。
なのに、罰金を納めきっていないうちに申し立てたところで、労役場に収容されている時に、実施決定書や呼出状を送りつけることになるかもしれず、そうなれば手続きが滞ったり二度手間になったりする羽目になる。
だから、労役場に収容するのなら、はっきりと時期を知らせてほしいのだ。
労役場への入所日と出所日が定まれば、心置きなく財産開示手続を申し立てられるというもの。
ネットで調べた限りでは、1回目に送付した納付書の支払期限が過ぎても、それから何度か督促状を検察官が送りつけるらしい。
労役場送りになるのは、督促状にも応じなかった場合のみらしい。
僕は今、長い休業のまっただ中にいる。
平日の真っ昼間にしか窓口が開いていない裁判所への用事は、なるたけこの期間中に済ませておきたい。
とりあえず、検察庁には3月末にもう一度、Mさんの納付状況を問い合わせるつもりだ。
今できることは、それだけだ。

のんき者、インドネシアに行く 3

飛行機から降り立ち、ングラライ国際空港の出口に向かう他の乗客の後に連なる。
とうとう、インドネシアにやってきてしまった。
ここから先は自己責任だ。
何かトラブルが起こっても、僕一人で対処しなくてはならない。
晴れ渡った青空の下で、これから始まる異国での休暇に胸を躍らせている旅行客に囲まれている僕は、不安と緊張で胸の内はいっぱいであった。
このような孤立無援感、そして孤軍奮闘せねばらない状況は、自転車で琵琶湖一周を果たした高校生の時を思い出す。
あの時は、押し寄せる不安を自力で押しのけねばならなかった初めての出来事であった。
それから、そのような出来事はその後の人生において繰り返し訪れ、その度になんとか切り抜けていった。
だが、危機に直面したときの衝撃には、今となってもなかなか慣れないものである。
何はともあれ、今は入国審査を受けなければならない。
人々の流れに従って、入国審査を受けるであろう人の列に加わる。
自分の番が来るのを今か今かと待ちながら、必要書類を鞄から取り出す。
入国審査に必要なのは、パスポート、帰りの搭乗券、そして印刷したVOA(Visit On Arrivalの略、到着ビザ)の書類である。
入国審査官に必要書類を全て手渡し、不備がなければ入国が認められる。
もし万が一、用意した書類に誤りが見つかれば、申請窓口に行って新たにVOAを申請し直さないといけない。
もちろん、そのときは手数料も再度支払う必要がある。
申請し直すといっても、手数料を支払うだけで済むのなら、こんなに気を揉むことはない。
しかし、VOAの書類の作成のためには、英語で事細かく書かれた質問事項に答えなくてはならないのだ。
出発前に事前に作成したときは、VOAの作成手順を丁寧に解説している動画を見てながら、なんとか仕上げたものだった。
もちろん、何度も見返して作ったものだから、時間はそれなりにかかっている。
だから、もし入国審査で不合格となれば、同じことを申請窓口で繰り返さないといけない。
できないことはないだろうが、長い時間僕の後ろで並んでいる旅行客を待たせながら、空港職員と僕という言葉が通じ合わない者同士の二人三脚で、VOAの完成に漕ぎ着けないといけない羽目になる。
衆人環視のもと、そんな状況に追い込まれたら、おそらく恥と自責の念で、すぐさま日本にとんぼ返りしたくなるだろう。
だからこそ、そんな失態を犯さぬように、VOAの記載事項は何度も見直した。
帰りの搭乗券が必要とあるが、これも航空会社の予約票で代替できるとのことだったので、これも事前に印刷して用意してきた。
パスポートも、もちろんウエストポーチの中に入れて、肌身離さず持っている。 
だから問題ない。
ただ、一つ懸念点があるとするならば、本人であることを示す顔写真だ。
前回も言及したが、本来ならスマホで自撮りした写真を提出すべきところを、スマホで余ったパスポート用の顔写真を撮影した写真を提出したのだ。
これに対して職員がどのような判断を下すのか、皆目予想がつかない。
別にたいしたことではないと判断されるかもしれないし、画竜点睛を欠いたとして、申請窓口にてやり直しを命じられるかもしれない。
ミスに気づいてからすぐにネットで情報収集してみたものの、そんなミスなどすること自体がありえないのだから、もちろん探してもなかった。
審査が認められるのか、認められないのか。
どっちに転んでもおかしくはなかった。
とうとう順番が回ってきて、おそるおそる必要な書類の全てを、職員に手渡す。
職員は僕から受け取った書類を、怪訝な顔をして、吟味する。
「これだけです」僕は彼に話しかけた。
これが僕がインドネシアで初めて使ったインドネシア語である。
インドネシア語、できますか?」職員の人が聞いてきた。
「はい、少しできます。少し勉強しました。私は工場でインドネシア人と一緒に働いています」
僕はなんとか勉強したばかりのインドネシア語の単語を引き出して、会話を試みる。
話しながらも、職員は書類のチェックを丹念に行っていく。
そして、確認作業に余念のない彼の視線は書類の顔写真のところで、ピタリと止まる。
それを見て僕はゴクリと生唾を飲み込む。
パスポートと照らし合わして、なにやら少し考えていたようだったが、すぐになんともなかったように、別の項目を確認しだした。
それから、笑顔でパスポートを返却してくれた。
どうやら入国が認められたらしい。
「どうもありがとうございます!」僕ほっと安堵して、丁寧にお礼を言った。
入国審査を乗り越えたら、あとは何も問題はない。
預け荷物受取所でスーツケースを回収し、税関申告でe-CD(電子税関申告書)のQRコードを読み取ってもらえれば、空港の外に出られる。
まず、銀行の両替所やSIMカードの販売所、そして大声を張り上げる空港タクシーの客引きが目に飛び込んでくる。
とりあえず、ここで日本円をインドネシア・ルピアに両替してもらう。
手持ちの現金は3万円と2千円。
そのうち1万円はセキュリティポーチの中に、もう1万円はスーツケースの中に入れて分散してある。
万が一、現金を盗まれても、ただちに一文無しにならないようにするための工夫である。
僕は手持ちの財布に入っていた一万札と千円札2枚を、両替所の担当者に手渡す。
まもなく1万2千円が120万ルピアとなって、戻って来た。
円とルピアのレートは、およそ1円につき100ルピアである。
なので、ルピアの数字から下2桁の0を2つ取り除いた数字が、大体の日本円に換算したときのおよその値段である。
慣れないうちは値段を聞かされても、日本円でのイメージが湧きにくいが、0を2つ取り除く作業に慣れればそれほど難しいものではない。
ミーティング・ポストでは、たくさんのドライバーが柵にもたれながら、ホテルや名前が書かれたプラカードを持って立っている。
もちろん、その中に僕の名前はないが、僕はしばらくそこにたたずんで、あたりをキョロキョロ見回していた。
僕が探していたのは、銀行である。
インターネットで探した情報によると、銀行で販売している電子マネーカードを買えば、トランスメトロデワタという公共路線バスが利用できるのだ。
この路線バスの料金が、とんでもないくらいに格安なのだ。
区間に関係なく、1回の乗り降りで4,400ルピア。
日本円でたったの44円しかかからない。
ングラライ国際空港から約40km離れているウブドまで路線バスで行くのに、1回乗り換えないといけないが、それでも料金は8,800ルピア、88円である。
同じ距離を空港タクシーで行こうとするとだと30万5千ルピア、日本円で3,050円もかかってしまう。
旅行資金が心許ない僕にとって、路線バスを利用しない手はなかった。ところが、肝心の銀行が見当たらない。
ネットの情報によれば、電子マネーカードを販売している銀行の1つであるMandiri銀行は空港の中にあるらしいのだが、それらしい施設は見つからないのだ。
ミーテイング・ポストをしばらく行ったり来たりした末に、仕方なくSIMカードを販売している店員に声をかける。
「すみません。Mandiri銀行はどこですか?」
呼び止められた店員は、いぶかしげな顔つきをして、僕の顔面をじろじろ見ていたが、しばらくすると「Domestic」という答えが返ってきた。
「Domestic」と言われても、一瞬何のことやらさっぱり分からなかったが、国内線のことだと気づいて、今度は国内線乗り場を目指す。
ングラライ国際空港の周辺をぐるりと歩き、立体駐車場の中も通ってみたが、どこが国内線乗り場なのかよく分からない。
そこここにある標識を頼りに、スーツケースを転がして数分後、ようやくそれらしき入り口が見つかった。
インドネシア人がなにやら搭乗券らしきものを手に持って、入り口に立っている警備員に見せてから入っている。
おそるおそる警備員に近づいて、中に入ってMandiri銀行で電子マネーカードを買いたいことをやんわりと伝えてみるが、きっぱり断られてしまった。
ならば、空港の外で買おうと他の警備員に尋ねてみるが、返答は「Outside」とだけで、道順は教えてくれず。
仕方なしにグーグルマップで検索してみると、あるにはあるが、歩いて行くには少し遠かった。
そもそも、この日は日曜日で、グーグルマップで検索できた銀行のどれもこれもが営業していなかった。
どうやら、路線バスでウブドを目指すのは諦めなければならないようだ。
となると頼りになるのはタクシーである。
タクシーでも、Grabタクシー、空港タクシー、そして客引きのタクシーなどの選択肢がある。
アプリで配送タクシーを予約できるGrabタクシーが利用できれば一番格安らしいのだが、インドネシアの通信会社のSIMカードを買っていないので、この選択肢は除外される。
空港の敷地の隅っこの、立体駐車場の入り口で客引きをしているタクシーは、法外な料金を請求されるとのこと。
これはガイドブックでも、インターネットでも口を揃えて警告していた。
送迎を予約しているわけでもないので、残る選択肢は空港にタクシー会社の営業所がある空港タクシーだ。
そこなら、30万~40万ルピアで、予約している民宿のあるウブドまで行けるだろう。
そう思って空港タクシーの営業所を探し始めたのだが、ふと気が変わって、タクシーの客引きをしている方を歩き出す。
インドネシアでは、タクシーでも市場でも、値札のないものは売主と交渉するのが基本と聞く。
そういった場面において、自分のインドネシア語がどこまで通用するのか、試したくなったのだ。
無論、僕のインドネシア語は片言で拙い故、多少はぼったくられるだろう。
しかし、空港タクシーの相場より、1,000円くらい上乗せされるくらいで、さすがにめちゃくちゃな料金を請求されるわけではないだろう。
ぼったくられた分は仕方がない。
それは、インドネシア語の勉強代として受け入れよう。
そう思って、客引きの懐にわざわざ自ら飛び込んでいったのであった。
「すみません。ウブドまで料金はいくらですか?」
僕は数人固まって客引きしている集団に声をかけた。
客引きの面子は一見すると老若男女、さまざまな人がいた。
「120万ルピア」その中の一番年を取ったお爺さんが、愛想よく答えてくれた。
「120万ルピア!?」肝を潰して、僕は周りの人が振り返るほどの、大声を思わずあげてしまった。
120万ルピアは、空港タクシーの相場の実に3~4倍もの値段に相当する。
多少はぼったくられると覚悟していたが、まさかここまで法外な値段をふっかけられるとは思いもしなかった。
「高すぎます。まけてくれませんか?」
この一言を合図に、決死の交渉が始まった。
120万ルピアをバカ正直に支払ったら、両替したばかりのルピアを全部吐き出さなければならなくなる。
そんなバカなことがあってたまるか。
僕が「Terlalu mahal!」と連呼して必死に値切り出すと、今度はお爺さんが眉間にしわを寄せて、しかめっ面へと、表情をがらりと変えた。
そうしてスマホを僕の眼前に突きつけて、何やら早口でわめきだした。そこには地名と料金が書かれていて、ウブドのところに「Rp1.200.000」と書かれていた。
いい加減な手書きではなく、きちんとワープロで作成された料金表であったので、何も知らない旅行者は、お爺さんの言ったことは正しかったのだと、うっかり信じ込まされそうになるが、空港タクシーの相場を知っている僕からすれば、こんな料金表なんぞ単なる子供だましでしかなく、彼らのやり口にただただ呆れるしかなかった。
客引きと僕との間で、しばらく言い合いになった。
お爺さんだけでなく、他の客引きも加わり、ウブドまで2時間かかるから大変だとか主張したが、僕は頑として値切りの姿勢を崩さなかった。
「Lima ratus ribu rupia(50万ルピアだ)」根負けした客引きが値段を下げてきた。
「50万ルピア・・・50万ルピア・・・」インドネシアの数の数え方や、通貨単位にいまいち慣れていなかったので、提示された値段をぶつぶつ復唱しながら、理解しようとする。
50万ルピアだとすると、始めに示された120万ルピアの半額以下だ。
ここまで一気に下げられたということは、120万ルピアはやはり不当に吊り上げられた料金である証拠であろう。
客引きのインドネシア人との初めての交渉で、半額以下に引き下げられただけでも上々であろうが、それでもまだ相場より20万ルピア高い。
「いや、30万ルピア(Tiga ratus ribu rupia)」僕は彼の提案を退け、空港タクシーの相場と同じくらいに引き下げた料金を提示した。
「50万ルピアだ」
「30万ルピア」
「50万ルピア」
そうして、しばらく30万ルピアと50万ルピアとの応酬があったが、最後にはとうとう僕が折れてしまい、50万ルピアでウブドまで送ってくれることになった。
お爺さんは交渉が済んでも不機嫌そうな顔を崩さず、集団の端にいた若者にタクシーを取りに行ってこいというような指示を出した。
その場でしばらく待機していると、駐車場の奥へ駆けていった若者が、白いSUVに乗って戻ってきた。
僕から手渡されたスーツケースをトランクに入れ、僕が助手席に乗ったのを確認すると、白いSUVウブドに向けて走って行った。
バリ島に限らず、インドネシアでは車以上にバイクの利用者がとても多い。
しかし、日本のスクーターのような原付のスクーターは見かけなかった。
インドネシア人がよく乗っているのは、2人乗りができる、おそらく排気量125ccのスクーターだ。
そのスクーターがたくさん、自動車と自動車の間を縫いながら走って行く。
ヘルメットをつけていないのも大勢いる。
日本ならSNSで大炎上しそうな無謀運転である。
インドネシアの交通事情を目の当たりにして度肝を抜かれているときに、ドライバーの若者が、煙草を吸っていいかと言いたげな仕草をする。
僕はどうぞと答えると、彼は煙草を口にくわえて、火をつけた。
「どこから来た?」ドライバーが質問した。
「日本から」
インドネシア語ができるの?」
「少し、できる。勉強した」
ドライバーは、どんどん話しかけてくる。
とはいえ、ウブドまでは車で2時間の長い道のりである。
しかし、僕の取るに足らない語学力だけでは、2時間もコミュニケーションを取り続けることができない。
そこで、僕はウェストポーチから、ポケトークを取り出した。
これはグローバルWi-Fiを申し込む際に、追加オプションとして一緒に申し込める翻訳機である。
インドネシア人はバイクに乗るとき、ヘルメットをつけないのですか?』
僕はポケトークに話しかけて、彼にその小さな機械を渡した。
すると、彼は嬉しそうに、ポケトークインドネシア語を吹き込んだ。『そうです。インドネシアではつけない人が多い』
『警察に捕まらないのですか?』
『法律はあるが、警察は熱心に取り締まらない』
『なるほど。スリルがあっていいですね』
そう答えると、ドライバーは笑った。
それからポケトークがエラーで反応しなくなるまで、2人でずっとおしゃべりをしていた。
話題は、僕の旅程だったり、日本での仕事のことだったり。
ドライバーの身の上話も、少し分かってきた。
彼は35歳で3人の子どもがいること。
インドネシアの若者の大半は、日本の技能実習生制度を利用して、海外へ出稼ぎにいくこと。
自分は子どもがいるから、出稼ぎにいけないこと。
『僕も実は貧乏なんです』僕は自嘲して言った
『それは嘘です』
『いや、本当です』
『貧乏な人はバリに来ません』
そう言われると、僕は二の句を継ぐことができなかった。
たしかに、日本において派遣社員として僕は社会の底辺をさまよっているものの、しかしインドネシアに行こうと思えば、数カ月あればそれだけの金を稼ぐことができる。
しかし、インドネシアでは一部の富裕層を除いて、大半のインドネシア人が月4万円ほどで生活している。
海外に行こうにも、往復で十数万円もするような航空券なんぞ、とてもじゃないけど、手が出せないのが実情だろう。
本当に貧乏人ならバリに来ない。
なんだがそう言われると、僕が下手な謙遜をしているようである。
そして、下手な謙遜というものは、聞かされても鼻につくばかりで、あまりいい気分になれないものである。
こんな話をすると、大学受験の思い出が蘇る。
当時は目新しい制度であったAO入試を受験すべく、第一志望の大学からAO入試のパンフレットを取り寄せたのだが、そこの受験体験談に投稿を寄せた女学生の言葉が、16年以上たった今でも、はっきりと覚えている。
『私は高校生の時に、夏目漱石全集を読破したのと、スイスに留学しただけで、他に何の取り柄もない人間なんです』
人生を一変する受験を数カ月先に控え、何かとぴりついていただけに、この一文を読んだ瞬間、僕は怒りと嫉妬で気が狂わんばかりであった。
なぜ、彼女はあんな見え透いたおべんちゃらを答えたのだろうか?
文豪の全集読破と、海外留学。
そこで得られた経験や素養は、書類の指定された原稿のマス目に余すことなく文字を書き入れ、面接官の質問に対して理路整然と、時にはユーモアも交えながら返答するのに役に立つだろう。
夏目漱石だけなら、まだ許せる。
日本の近代文学を代表する文豪なので、偏差値に関わらず、どこの高校の図書室に全集が置いてあってもおかしくない。
たとえ、図書室に置いていなかったとしても、文庫本(岩波、新潮、ちくまなど)くらいなら、数日アルバイトした給料で全て取りそろえられるし、自治体の図書館に行けば確実に借りて読むことができる。
つまり、夏目漱石の全集読破は、その気になれば世帯収入や偏差値に関わらず、本人がその気になれば、たやすく手に入れられる文化資産である。
なので、「取り柄のない人間です」は、夏目漱石全集読破の一本槍でAO入試に臨んだ末に、合格を勝ち取った者だけに許される台詞だ。
僕はそう考える。
しかしながら、夏目漱石全集読破だけでなく、スイス留学まで付け加えるなら話は別だ。
そんなものまで付け加わったら、合格しない方が無理があるからだ。
スイス留学、それだけで彼女の語学力や教養などを十二分に裏付ける客観的な履歴となる。
また、その経験はよほど経済的に裕福でなければ、手にすることができない。
勉強だけできてもダメ、家が資産家だけであってもダメなのだ。
勉強と資産、その2つが兼ね備わって初めてスイス留学が手に届くところにまで近づく。
そして、そんなものが2つ同時に揃えられる人など、滅多にいるものではないのだ。
ピラミッド型のヒエラルキー構造に当てはめれば、彼女はほぼほぼ天辺あたりに鎮座する。
にもかかわらず、僕らのほうに、言うならば「庶民」のところまで降りてきて(本気で降りる気はさらさらないにもかかわらず)、「何にも
取り柄のない人間なんです」とのたまいながら、同じ位置に立って肩を並べようとする。
合格するのに十分なレベルに到達していたにもかかわらず、下手にへりくだるその態度に、僕は身の毛がよだつのだ。
数年後、僕自身もいくつか夏目漱石の作品を愛読するようになったが、おそらく彼女のような人物は、夏目漱石の心理描写に長けた筆によって、とことんこき下ろされたに違いないと確信する。
見た目が小綺麗に着飾りながら、微笑みを浮かべて、口から出てくるのは歯に浮くようなお世辞ばかりで、肝心の本心というものが全く見えてこない人物だ。
『明暗』で例えるなら、小林から見た津田である。
『坊ちゃん』で例えるなら、赤シャツである。
吾輩は猫である』にも、こんなふうに鼻につく人物がいたような気がする。
たぶん。
これらの作品を彼女はどういったつもりで読んでいたのだろう?
自己アピールにも掲載するくらいだから、相当読み込んでいるはずではあるが、そこに自身の生き写しを見いだしたことは幾度あったか?
願わくは、その点を問いただしてみたいものである。
もしくは、本当に心から自分は取り柄のない人間だと思っていたのだろうか?
彼女の通う高校はもしかしたら海外留学は当たり前、誰も彼もスポーツや学問だけでなく、何かしらの一芸に秀でた人物ばかりが揃っているようなエリート高校だったのかもしれない。
彼女自身と似たようなエリートに囲まれた高校生活を送っていれば、いつしかそれが世間の縮図となり、やがてやたらと自身を卑下するのも無理からぬ事かもしれない。
ある意味世間が知らずであったが故に、無邪気に「取り柄のない人間」とアピールしたのだろうか。
はたまた、スイス留学を通して、僕の想像にも及ばないくらいに見聞を広げた末に、「所詮自分は取り柄のない人間だったのだ」という心から反省が芽生えたのかもしれない。
想像しようによっては色んな背景が浮かんでくるが、受験を目前に控えて余裕のなくなっていた僕には、そんなことは分からなかった。
ただただ十分すぎるほどのアピールポイントに恵まれていたくせに、「取り柄がなかった」と嘯く、そのにこやかな顔が何とも腹立たしかった。
それなら、むしろ「合格して当然です」とか「全て私の実力です」などと、傲岸不遜で偉そうなコメントを残してくれたほうが、うらおもてが一緒であると容易に想像できる分、すっきりするのだ。
僕は別に、大学に合格したことに、怒ったわけではない。
スイスへ留学に行ったことに、怒っているのではない。
夏目漱石全集を読破したことに、怒っているのでもない。
AO入試合格に至るまでの、財力や機会、知的能力といった自身の恵まれた「力」を、内心ではっきりと自覚しているにもかかわらず、インタビューではやんわりと笑顔で謙遜してみせるそのポーズが、その猫被りが、その空々しさが、公立高校の17歳だった僕にとっては、非常に胸くそ悪かったのだ。
閑話休題
こうしたわけで、「貧乏な人はバリに来ません」と言わねばならなかった彼の不満が、僕にはよく分かった。
彼は今、17歳の僕の目線で、僕を見ている。
なので抽象的に「僕は貧乏だ」と言っても、きっと信じてもらえない。
もっと具体的に恥部をさらして、彼と同じ位置に立って肩を並べることはできなくても、なるたけ近づこうとする努力を見せつる必要がある。
『実は僕はギャンブルでたくさん借金をしました』
ポケトークにそのような言葉を吹き込みながら、右手でパチンコのレバーを回す動作をする。
翻訳された僕の言葉を理解すると、彼は嬉しそうにはしゃいで笑った。
「パチンコ、知ってる?」今度はポケトークを介さずに、レバーをひねる動作をしながら聞いてみると、彼は何度も首を縦に振った。
どうやら、インドネシアでもパチンコは有名らしい。
とにかく、僕は僕なりに経済的に困窮していることを分かってもらえたようである。
タクシードライバーとおしゃべりしていると、2時間の道のりはあっという間に過ぎた。
ポケトークをオプションで追加しておいて、本当によかった。
もし、これがなければ、全く話が弾まなかったにちがいないから。
予約しておいたホテルは路地裏のさらに裏へと進んだところにある。
その狭い路地の入り口のところで、タクシーを横付けしてもらい、料金の50万ルピアを支払った。
バリ島の有名な観光地といえば、海岸沿いのリゾート地が定番なのであるが、バリはその中で珍しく山と水田に囲まれた村である。
村といっても、連想されるような人里離れた田舎のイメージとは、雲泥の差がある。
片側1車線の道路では渋滞で自動車がのろのろ進み、その隙間を埋めるようにバイクが暴走する。
交差点には信号がないので、ドライバー全員はタイミングを見計らって、右左折をする。
そして、自動車とバイクが走り抜けた後には、土埃が舞う。
人2人が並んで歩くのが精一杯の狭い歩道には地元民と、白人の旅行者で溢れかえり、道沿いにはホテルやレストランやコンビニ、土産物屋がずらりと軒を連ねている。
そして、全体的に雑多でカオスな雰囲気が漂う。 
どこを振り向いてみても、日本で見るような景色はなく、まさに異世界である。
とりあえず、宿に向かう。
狭い路地の右側にも左側にも、旅行者向けのお土産を売る露天がずらりと並び、僕を見ると熱心に呼び込む。
それを無視して、ひたすら奥に進むと、宿の名前が書かれた看板が見えてきた。
バリ島のホテルの料金は、ピンからキリまである。
それこそ都心の高級ホテルにひけを取らないものもあれば、日本のネットカフェの6時間ナイトパックくらいのものもある。
その中で僕は「キリ」のほう、つまりとことん安価な宿を選んだ。
バリ島では、ホームステイとかロスメンなどと呼ばれている安宿である。
日本でいえば民宿だ。
僕がこれから3泊お世話になるホームステイでは、1泊がたったの1,500円で宿泊できる。
3泊しても4,500円で、しかも朝食付きでこの値段だ。
旅行の予算が殆どなかった僕には、まさにありがたい価格であった。
建物はコンクリートと土壁、レンガで作られているようだが、赤茶けた色使いといい、宗教色漂う細かな装飾といい、バリ情緒が全体的に醸し出されている。
しかし、これはこのホームステイだけではない。
どこを見渡しても、どこを歩いても、バリ島の伝統が息づいているのだ。
それが、とても素晴らしい。
入り口の小さな門を潜ると、女主人が顔を出す。
簡単に挨拶を済ませると、建物の最上階の部屋を案内される。
白い石のタイルを敷き詰めた6畳ほどの間取りに、家具はダブルベッドが1床、小さなテーブルが1脚あるのみ。
入り口のドアの、向かいの壁にあるドアを開ければ、右手にシャワーが、左手に洋式トイレがある。
シャワーは蛇口を捻ると水は出るが、お湯は出ない。
そして、トイレには紙がない。
天井にはシーリングファンがぐるぐる旋回し、照明はベッド灯の電球があるのみ。
そして、クーラーはない。
寝泊まりするに最低限必要なものだけが揃えられている。
女主人に朝食の時間を伝えると、部屋の鍵を渡される。
南京錠の小さな鍵である。
外出するときは、ドアの外から南京錠でドアに鍵をかける仕組みらしい。
そして、このドアにはドアノブがなく、内側から鍵を閉めることができない。
なので部屋にいる間は、スーツケースでドアを押さえておかねばならない。
何はともあれ、ようやく宿にたどり着いた。
ベッドに腰を下ろすと、一気に睡魔に襲われる。
この2日間ろくに寝ていなかったので、その誘惑は強烈だった。
僕はごろんと横になると、ここまでの道中に至るまでの余韻にふけることなく、意識を失った。

のんき者、インドネシアに行く 2

シンガポール時間にしておよそ23時頃、僕を乗せたTR819便は、チャンギ国際空港の滑走路に、難なくその巨体を滑り込ませた。
着陸してから、しばらく滑走路を低速移動して、停車する。
それからCAが合図をすると、乗客はみんな、席を立って、天井部の荷物入れに収めている鞄を取り出し始めた。
窓側の席を占めている僕には、立ち上がって自分の荷物を取り出せるほどのスペースがなかったので、他の乗客が出て行くまで、大人しく座って待っていた。
搭乗口へ乗客が吐き出されてから、ようやく僕も立ち上がった。
案内に従って、チャンギ国際空港の建物に入ったときは、一緒の飛行機に乗っていた乗客は三々五々に散らばっていた。
今いる場所が湖面の薄氷の上であるかのように、一歩づつ慎重に歩いて、あたりを見回す。
ここはもう、日本じゃないのだ。
とうとう外国に来てしまった。
この世に生を受けてから34年、これまで体験できなかった世界に踏み入れたことに、僕は静かに感激していた。
入国手続きをしていないので、厳密にはシンガポールに入国したということにはならないのだろうが、それでも目に映る全てのものが日本にないものばかりで、トイレ1据、ベンチ1基、自動販売機1台を眺めるだけでも愉快だった。
チャンギ国際空港は、4つのターミナルで構成されている。
ターミナル1~3は「コの字」を描くようにしてつながっており、徒歩で行き来できるし、ターミナル間を接続するスカイトレインで移動することもできる。
ターミナル4は出国審査後、無料のシャトルバスに乗らないといけない。
なので、今回は乗り継ぎのため空港の外へ出かけられないので、残念ながら、ターミナル4には行けなかった。
このターミナルというのは、こりゃまた、とてつもなく大きい。
「コの字」の一辺を端から端まで歩ききるのに、早歩きでも20分はかかる。
まるで、イオンショッピングモールを3つも4つも繋げたような、広大な敷地面積を誇っている。
その広い敷地に立つターミナルの中に、搭乗口、チェックインカウンター、ブランドショップ、フードコートなどがあるのだ。
チャンギ国際空港は、乗り継ぎをするために降り立ったに過ぎない。
次の出発は朝の7時である。
それまで、出発までの8時間あまり、僕はこの広い空港内で、時間を潰さなければならない。
まず僕がしたことは、インターネットの接続である。
主に使う国はインドネシアであるが、オプションをつけて、チャンギ国際空港でも、グローバルWi-Fiを使用できるようにしておいたのだ。
それと、腕時計の時刻合わせだ。
日本とシンガポールの時差は、1時間である。
腕時計の針を日本時間のままにしておいたら、飛行機に乗り遅れ、チャンギ国際空港で、置いてけぼりを食らってしまう。
だから、時刻合わせは、忘れられない。
深夜にも関わらず、旅行客でごった返す空港の片隅で立ち止まって、以上の設定を済ませると、「さてと・・・」と独り言をつぶやいて、当てもなく歩き出す。
搭乗時刻は、明朝6時25分。
それまで、僕は時間を潰さないといけないわけだが、さりとて、時間の潰し方を分かっているわけではなかった。
とりあえず、英語で記された地図を見て、フードコートとおぼしき場所に行ってみることにする。
最後に食事をしたのは、関空を飛び立ってすぐに食べた機内食で、それから6時間あまり経過した今となっては、腹が減って仕方がなかったのだ。
フードコートは深夜でも営業していたが、問題は値段であった。
洋風や中華の店が並ぶなかで、どこか見たことのある「一風堂」という看板を掲げた店に自然と引き寄せられたが、ラーメンが1杯11ドルとか12ドルで売られていたのを見て、ピタリと足を止めてしまった。
たしか、1ドルはだいたい150円くらいだった。
ということは、ラーメン1杯1,650円もする計算になる。
日本のラーメンの、ここ最近は値上がりの傾向にあるが、さすがに1杯1,650円はあり得ない。
麺は大盛り、チャーシュー、その他トッピングがマシマシなら、まだ理解できるか、見たところ、ごくごく普通の並盛りの豚骨ラーメンなのである。
本場の値段を知っている日本人の僕にとっては、迂闊に手を出せない代物である。
しかし、すでに10万円の航空券に手を出してしまったのに、今さら1,650円のラーメンにびくついてどうするのだと思わないでもないが、今はぎゅうぎゅうに財布の紐を引き締めておかなければ、来月引き落とされるクレジットの請求金額が大変なことになる。
たかがラーメンであろうと、侮るわけにはいかないのだ。
そうはいうものの、お金を出し惜しみして、フードコートのテーブルの間をうろうろしていても、空腹はますます酷くなるばかりである。
その時、ある自動販売機を見つける。
タッチパネルを操作して注文すると、料理が出てくる自動販売機である。
販売しているの料理は、中華料理か台湾料理なのかよく分からなかった。
文字は全く読めなかったので、料理の名前は分からなかった、なんとなく見た目が麻婆春雨だと分かる料理を注文する(操作方法は英語で記載されていたが、メニューの紹介文は漢字で書かれていたような気がする)。
値段は日本円で600円程度。
一風堂のラーメンより、安い。
自動販売機から合図の音がして、取り出し口から料理を取り出す。
コンビニの冷凍食品や米飯パックのように、プラスチックの容器にビニールの蓋がしてあった。
それをめくると、温かい赤色の春雨が中に入っていた。
フードコートの空いている席を見つけて、備え付けの割り箸で、もそもそと春雨をほおばる。
チャンギ国際空港では、どんなものでもクレジットカードで決済できる。
ブランドショップやフードコートはもちろん、自動販売機で料理や飲み物を買うときにも、クレジットカードをピッとかざせば、購入できる。
だから、事前に円をドルに両替しなくてすむので便利である。
インドネシアの通貨はドルではなく、ルピアだ。
下手に両替して、ドル紙幣を余らしたまま、インドネシアに行っても仕方がないのだ。
ささやかな食事を終え、ほっと一息ついたところで、僕は空港内をぶらぶら歩き出した。
この旅行が終われば、何時、この異国の巨大な建築物を訪ねられるか分からない。
だから、せっかくなのでこの広大なターミナルを隅から隅まで歩き通してみたくなったのだ。
このささやかな探索に、僕は子どものようにはしゃぎながら、楽しんだ。
夜勤明けで一睡もせぬまま日本を飛び立ち、飛行機のきつい冷房に凍えながら、わずか数時間の仮眠をとっただけなので、寝不足でかなりくたくたになっているにもかかわらず、頭のほうは興奮で冴え渡っていた。
ターミナル3からターミナル1へ、ターミナル1からターミナル2へと歩き通して、行き止まりの壁にぶつかると、歩行用のエレベーターに乗りながら、来た道を引き返して往復する。
ターミナル3の端まで歩けば、スカイトレインに乗って、ターミナル2に行く。
その間に、スマホで気に入った箇所を写真に収め、少し疲れたら、そこら中にたくさんあるベンチに腰をかけて休憩する。
3時間くらい、疲れを忘れて空港内を散策していたと思う。
どれだけ往復したか覚えていない。
テーマパークのアトラクションに乗ったわけでもない。
ただ、あちこち見て回るだけで、楽しかったのだ。
空港には、僕と同じように乗り継ぎ便である早朝のフライトを待っていた。
ベンチに腰掛けてスマホを操作していたり、壁際に座り込んで、スーツケースにもたれていたり、中には隅の方で寝転んでいたりしている。
数時間の無聊を慰めるスタイルはそれぞれだが、あまりにも人目をはばからずにいるので、勝手の知らない僕からしたら、驚愕でしかないのだが、おそらくこれがトランジット空港では、ごくごく普通の光景なのだろう。
人はさまざまであるが、誰も彼もが暇を持て余し、眠たくて疲れていそうであった。
深夜にもかかわらず、ここぞとばかりに、はしゃぎまわってターミナルを歩き回っているのは、僕くらいなものであった。
旅行客の人種でいえば、そのほとんどが白人であったが、中には頭にターバンを巻いたアラブ系の人種やアフリカ系の黒人もいた。
ちなみに、帰路に再びチャンギ国際空港に戻ってきたときは、その大半が中国人であった。
たった数日で、空港を利用する人種が入れ替わったので、そのときは何事かと目を見張ったものであった。
ここにはいろんな人がいるが、工場では絶対に遭遇できない人たちばかりだ。
そういった人たちと、直接対面して、会話するわけではないが、ただ見ているだけで色んな刺激を受けて、面白い。
大きなスーツケースをいくつも転がしている家族連れで歩いている白人を見ると、彼らはどこへ行くのかとか、旅行の日数はどれくらいとか、どんな仕事をしているのかという具合に、様々な想像をかき立てられる。
工場と自宅を行ったり来たりしているだけの生活をしていると、関わる人、すれ違う人はどれもこれも自分と似たり寄ったりであり、あまり関心が向かない。
それどころか、全く知らない人にもかかわらず、その風体やマナーの悪さから見るだけでも不快感をもよおしてしまう人も、少なからずいる。
かといって、不愉快を一掃し、気分を一新させるために、貴重な余暇を使って、慣れない集まりに出入りして、交友関係を広げる気にもなれない。
だから、住む世界が全く違う人を見るというのも、これまた旅行の醍醐味の一つなのだろう。
しかし、乗り継ぎの空港に着いただけでこんなに楽しんでしまっては、現地に着いたら神経がどうなってしまうのか分かったものではない。
うろつき始めてから数時間後、さすがに身体の疲労と寝不足をごまかしきれなくなった。
最後に起床したのは、2日前の夕方なのだから、当然である。
散々歩き回ったが、出発までかなりの時間が残っている。
僕は道しるべの標識を頼りに、「ラウンジ」に行くことにした。
ネットの情報では、「ラウンジ」という仮眠・休憩スペースがあるらしい。
空港内には飛行機を待つ人のために、かなりの数のベンチが用意されており、もちろんベンチを陣取るだけであれば無料なのだが、「ラウンジ」というところに行けば、有料ではあるがシャワーの他にも仮眠室を利用できたり、ドリンクバーや軽食などで腹ごしらえすることもできるらしいのだ。
ただ、受付の仕方がよく分からなかった。
いくつかのサイトを巡ってみると、プライオリティパスがどうたらこうたらという解説があるが、このプライオリティパスというのは当然ながら持っていないし、そもそもこいつの正体さえ理解していない。
さらに言えば、僕は英語がまるでできない。
もう10年以上勉強していないのだから、簡単な受け答えさえ忘れてしまった。
せめて、仕込んできたばかりの、付け焼き刃のインドネシア語が通じればいいのだが、シンガポールで一番幅を利かせているのは英語であるゆえ、それも叶わないだろう。
だが、どうしても眠りたかったし、なによりもシャワーを浴びたかったので、ダメ元でいくつかのラウンジを回ってみた。
最初に訪ねたラウンジでは断られ、その次に訪ねたところでも追い返された。
3番目に訪ねてみたラウンジで、ようやく入場が許された。「Ambassador Transit Lounge」という名前のラウンジで、利用したいがプライオリティパスがないことを、「あー、うー」とぼやきつつ身振り手振りで伝えると、受付の人がメニューを指で示してくれた。
カード払い、最長3時間まで、68ドル。
受付の人が示してくれた条件に対して、僕は首を縦に振って、カードを差し出した。
それから、手渡された退場時刻の書かれたシールを服の左胸に貼り付けてから、ようやく入場が許された。
3時間と少しだけだが、落ち着く場所を得られたので、ホッとした。
受付を済ませると、さっそくシャワー室に飛び込んで、汗を流す。
ここでも日本と違う設備があるのかと思ったが、さすがに蛇口のひねり方やお湯の調整の仕方などは、世界共通らしい。
使い勝手は日本とそれほど大差はなかった。
それから、ラウンジチェアやバイキングなどがある休憩スペースに向かう。
僕が飛び込んだラウンジには、個室にベッドが備え付けられているような仮眠スペースはなかった。
シャワー室とトイレと、今いる休憩スペースだけ。
一番求めていた設備がなかったのは、残念至極であるけれども、いまぐっすり寝てしまうと、3時間だけでは飽き足らず、8時間以上寝てしまいそうなので、考えようによってはこれでよかったのかもしれない。
バイキングで、日本の焼きうどんのような料理を皿にてこ盛りに盛り付ける。
眠気覚ましのコーヒーと一緒に腹に入れたが、時間がまだ余っていた。
シャワーに腹ごしらえと、やるべきことをすませたので、残りの時間をインドネシア語の勉強にあてることにした。
あと数時間経てば、飛行機を降りて、インドネシアの土を踏むことになる。
トラブルにあっても自己責任。
誰かが尻拭いしてくれるわけじゃない。
そんなときの唯一の武器は、最低限の語学力である(もちろんあればあるほどよい)。
スマホの翻訳アプリや翻訳機もあるが、やはり自分でもある程度は知っておかないと、アプリや機械だけでは心許ない。
せっかく、机と椅子とトイレとドリンクバーがあるラウンジに、お金を出して利用しているのだ。
仮眠が叶わなければ、せめてインドネシア対策の最後の追い込みをかけるべきだ。
こうして僕は、ラウンジを利用できるギリギリの時間まで、参考書を広げ、机にかじりついていた。
チェックインの開始時刻は4時10分。
それに少々遅れて、僕はチェックインカウンターに並んだ。
手荷物検査をパスし、パスポートと航空券を確認してもらって、搭乗口のベンチに座って、搭乗時刻を待つ。
窓には広い滑走路とこれから搭乗する旅客機、スクート航空TR280便が見える。
そして、その奥からまばゆい黄色の光を放つ朝日が昇ってきて、思わず目を細める。
6時25分、搭乗口前のベンチがバリ島に向かう旅行客で、そのほとんどが埋まる頃になって、職員が搭乗を知らせて、みんなはガヤガヤと搭乗口に向かった。
みんなに遅れて、僕は旅客機に乗り込む。
一番左側の3列シートの、窓際の席が僕の席であるが、僕が乗り込んだ頃にはその真ん中と通路側の席には、若い白人のカップルが座っていた。
天井の荷物預け入れにリュックサックを放り込むと、「エクスキューズミー」と声をかけると、白人カップルの2人は立って、席を譲ってくれた。
「センキュー、センキュー」と礼を述べながら、腰をかけると、さっき女性が座っていた真ん中の席に男性が、男性が座っていた通路側の席に女性が座った。
カップルの男性にとっては、これは当然の配慮かもしれないが、元々の席を入れ替えなければならないくらいに、あやしい奴だと認識されたのかなと思うと、この出来事は少々ショックであった。
しかし、こうして飛行機の座席に隣り合って座って、改めて自覚させられたのだが、彼らの身体のなんとも大きいことか。
平均的日本人男性の身長を持つ僕でも、ぴったりなくらいだったのに、彼らの場合だと座ったときの膝頭が前の座席の背面にくっつき、肩がこちらの領域にまで侵入してくる。
おそらく、男女ともに僕より一回り大きいに違いない。
彼らとはもちろん、搭乗している間は会話はない。
ただ、機内食のデザートのアイスを突いているとき、紙のスプーンがへしまがるほど固かったので、カップルの男性が呆れたような顔をして、アイスを見せてきた。
それで僕も笑って「Like a rock.(岩のようだね)」と咄嗟に答えたが、何の心構えもなしに飛び出た英語にしては、なかなか気の利いたことを言えたので、心の中でほくそ笑んだ。
しかし、アイスは岩と表現するには、あまりにも小さすぎる。
普通は手のひらにおさまるサイズの石を、岩と言わない。
岩とはもっと、例えば、人の背丈を超えるような巨大な石を指す。
だから、今回の場合は「rock」ではなく「stone」と表現できれば、おそらく百点満点であったろう。
そんなふうに、おそらく二度と役に立たない反省会を、脳内で繰り広げながら、窓外の青空を見入っていた。
そうしているうちに、シートベルト着用の機内アナウンスが入り、チャンギ国際空港からングラライ国際空港までの短い旅路が、終わりに近いていることを告げ知らせた。
飛行機は地上めがけて、ゆっくりと前傾姿勢を取りながら、下降していった。
そのうち、バリ島の輪郭を描く海岸線が見え、次第に町並みもはっきりしてきた。
バリ島が近づいてきてることを隣のカップルが分かると、嬉しくなったのか、いちゃつき始めた。
周りに見知らぬ人がいるにもかかわらず、何故いちゃつけるのが、僕には分からなかった。
日本人と西洋人の感覚の違いなんだろうか?
いや、そもそも、人として認められていないのではないだろうか?
僕のようなちんけなアジア人は所詮、ペットの犬か、動物園の猿くらいにしか捉えていないのかもしれん。
でも、それなら合点がいく。
動物の前では、どれだけいちゃついても、羞恥心なぞ起ころうはずがないからだ。
ああ、きっと、人間扱いされていないのだな。
そんなふうに思い詰めて、ひとりで悲しい気分を味わっているところで、飛行機はングラライ国際空港の滑走路に着陸した。

驚天動地

2023年12月20日水曜日、昼下がりに僕はふと目覚めた。
夜勤をしているときにありがちな中途覚醒である。
起きるのには早すぎる。
何度も二度寝を試みたが、寝られない。
一度目覚めば、再び眠りにつくことが難しいのも、夜勤の時にありがちである。
ただ、この日に限っては有給休暇を取得していて、寝不足のまま働かなくてもいいのが、不幸中の幸いだ。
どうにもこうにも眠れないから、ベットから起き上がって、何の気なしにスマホを確認する。
すると、大学の友人からLINEのメッセージが送信されていた。
内容を確認すると、「○○(僕の派遣先の名称)大丈夫?」とだけ書いてあった。
これだけでは、何のことやらさっぱり分からない。
「大丈夫?」と尋ねられても、昨日までいつものように仕事をして、今し方起きたばかりの僕には、問いに答える材料は一切持ち合わせていない。
何が何やら分からぬまま、とりあえずインターネットで派遣先の名前を入力して、情報を検索してみる。
すると、「速報」の二字に続いて、「不正発覚」「出荷停止」の文字が並んだニュースが、僕の寝ぼけ眼に飛び込んできた。
まさに「寝耳の水」と言わんばかりの、衝撃的なニュースであり、一瞬にして眠気は覚めてしまった。
派遣先が出荷停止を停止するとなると、どういう事態が引き起こされるのか、コロナ渦を通して、嫌というほど覚えさせられた。
出荷を停止することは、製造ラインの稼働を停止するということであり、製造ラインの稼働を停止するということは、とどのつまり仕事が無くなるということなのだ。
この点はサービス業とは異なっている。
接客や営業などといったサービス業の職種であれば、お客さんが減ろうが、取引先が無くなろうが、とりあえず職場に出勤するものだろうが、工場の場合だと、製造ラインを停止してしまうと、それ以外の仕事が無いから、休業となってしまうのだ。
そして、休業になるということは、その期間が長引けば長引くほど、給料が激減してしまうのだ。
出勤しないため、残業代はもちろんのこと、夜勤手当もつかない。
さらに支給されるのは休業手当のため、基本給の4割が削り落とされる。
このように収入は大幅に減損するのに、社会保険料などの控除額は一向に変わらないのだ。
このように、出荷停止というのは、末端で働く多くの従業員の家計事情を大きく一変させてしまう対応なのだ。
そして、ご多分に漏れず、僕自身の生活にも大きく影響してしまう。
2月に控えた友人の結婚式。
10日前には嬉々として出席の通知を返送したものであったが、諸々の出費を計算すると、出席を見送らねばならないかもしれない。
ひとまず結婚式に参列するのに、必要な出費を計算してみる。
ご祝儀代、交通費、宿泊代。
10年前に買ったダークスーツは、僕は肥えてしまったばかりに、身体に合わなくなったから、礼装一式も新調しなければならない。
それに、季節は冬だから、コートも必要だろう。
他にも諸々の細かい出費もあるだろうから、そういったものも含めてざっくり見積もると20万円弱は必要だろう。
無論、出欠の返答を求められたときには、すでにそれくらいの支出はいるだろう位の予想はついていた。
たしかに一度に吐き出す支出としては、まさに去年行ったインドネシア旅行の費用と肩を並べられるほど高額であるに違いないが、一生に一度の友達の結婚式だし、またそれくらいの出費はこれから働き続ければ数ヶ月で取り戻せると踏んでいたのだ。
そのつもりだったのに、たった今知ってしまったニュースによって、その実現が脆くも崩れ去ろうとしている。
もはや結婚式どころではない。
自分の生活すら守りきれなくなるかもしれない。
突然の思いも寄らぬ出来事に、思考が追いつかず、焦りが募る。
とにかく今は情報がほしい。
一体全体、何故に派遣先はそれほどまでに大きな決断を下さねばならなかったのか?
その原因を知らねばなるまい。
持ち場によって個別に作られているLINEのグループには、まだ1件の通知も無い。
ネットのニュースやSNSをさらに探ってみると、15時から第三者委員会の記者会見が、17時から社長の記者会見が行われるとのこと。
時計を見ると、すでに15時は過ぎていた。
急いで机の上にノートパソコンを開き、記者会見の配信にアクセスする。
この日は16時から歯医者の診察があり、17時30分に内科に行って血液検査の結果を報せてもらうことになっていた。
社長の記者会見には間に合わないが、第三者委員会の記者会見なら、歯科医へ出かけるまでの数十分間は視聴できそうであった。
ブラウザが配信画面に遷移すると、第三者委員会の代表者である弁護士の言葉を、固唾を呑んで聞き入る。
彼の口から、数多の不正の実態が浮き彫りになり、そのような不正に従業員が手を染めるに至った素因が洗い出され、最後にその責任は経営陣にあると裁断が下された。
それから、歯科医へ診察に、続いて内科のクリニックへと行く。
クリニックの待合室のテレビでは、派遣先の工場のニュースで持ちきりであった。
テレビの画面には、記者会見の場で、社長が頭を下げている映像が繰り返し映し出される。
もちろん、全くの他人事ではない僕は、順番が来るまで、テレビに釘付けになっていた。
テレビやネットでは、今回の不祥事に関して、溢れるばかりの情報が垂れ流されているが、持ち場のグループLINEには、一向に通知が来ない。
痺れを切らした僕は深夜、昼休みの時間を見計らって、同僚にLINEで職場の様子を窺ってみた。
彼の言うには、当初は計画されていた残業は無くなり、定時操業になったという。
翌日、何事も無かったかのように出勤して、朝礼が始まるまでに、仕事を始める準備に取りかかる。
やっていることは、いつもと変わらない。
ただ、どことなく現場の人たちはショックで打ちのめされているように見えた。
みんなはわざわざ口には出さないが、考えていることはおそらく1つだ。
全員がこれからの生活について、頭を悩ませているにちがいないのだ。
朝礼の時間が近づくと、みんなはそれぞれ定位置に集まり出す。
僕もいつもの場所でぼんやりと立って、朝礼が始まるのを待っていた。
ふと目の前にある工場の建物を支える太い柱へ顔を向けると、安全唱和の文言が記されたプレートが掲げられているを見つけた。
「お客様目線の『もの造り』」
「全てはお客様のために ヨシ!」
朝礼を行う場所で、みんなの目に入る位置にそれは柱に貼り付けられており、いつもは視界に入っても何の興も湧かない代物である。
だが、今日に限ってはそれを見る度に、すっかり呆れて薄笑いを止められなかった。
「お客様目線の『もの造り』」を目指した結果が、このざまか。
聞いて呆れる。
「Iくん、ちょっと」僕は隣にいる同僚の派遣社員を小突いた
「何ですか」
「あの安全唱和のやつ、今から剥がして捨ててこい! あんなんあっても意味ないわ! 人を馬鹿にしてるで!」
「嫌ですよ。人をけしかけないでくださいよ」
「いやいや、俺がやったら、俺が怒られるやろ!」
そんな軽口を叩いているうちに、まもなく朝礼があったが、今回の不祥事に関連して、ミーティングがあるため、全員が別室に移動させられた。
ミーティングは約1時間行われた。
それから先のことについて詳細は省くが、仕事について関連することでは、22日の夜勤までラインを稼働し、翌週はラインの稼働はしないものの、28日まで日勤は出勤で、夜勤は25日から休業となることが決まった(後日、日勤も26~28日まで休業に変更となった)。
12月24日、不祥事の渦中に巻き込まれた全ての従業員にも等しく、クリスマス・イブがやってきた。
僕はといえば、日がな一日、ネットでニュースを読みあさる他に、第三者委員会の調査報告書を読みふけっていた。
概要版はA4用紙14枚の分量だが、調査報告書そのものは154頁にもなる、まさしく「大著」である。
その「大著」を全部、マンガ喫茶コピー機で印刷してきたのだ。
工場の今後の対応については、新たな報道を待つほかない。
しかし、不正の実態や原因究明、今後の対策については、ニュースで報じられているものは、所詮調査報告書をかいつまんで説明しているに過ぎないので、それなら自分で調査報告書を読み進めていったほうが、変なバイアスがかからずに済む。
一介の派遣社員が一所懸命になって、こんな分厚い書類を読んだところで、何かが変わるわけではない。
けれども、不正の原因と責任を追及してくれた人々の報告に耳を傾けるのは、僕の人生にまた大きな波紋を生じさせた正体を明らかにするという点で、無駄ではない。
いや、そうしなければ気が済まない。
大学を卒業してから、この方10年余り。
それまでの職歴を振り返ると、トラブルに巻き込まれることが多々あった。
新卒で入った会社でのサービス残業、デバック会社での有給休暇の没収、タクシー会社での超過労働、西陣織の工場での不当解雇。
転職する度に、何かと労働トラブルに巻き込まれる。
それに対して、僕もただでは転びたくない性分なものだから、労働問題に関する持てる知識を総動員して、会社と真っ向勝負をしかけてしまう。
働かざるもの食うべからずとか、仕事もしていない奴が権利を主張するななどと、上司からあてこすりを受けたこともあったが、その主張が正当であるならば、弁護士や労基署の職員の前でも、同じように主張してもらいたい。
残業代の請求や、有給休暇の請求、それに不当解雇の紛争など、労働トラブルに対して、いろんな法的処置をしかけてきたが、僕の主張が認められなかったことは一度もない。
少なくとも僕の対応は、法律の適用される範囲や社会通念を、寸毫も逸脱していない。
目先の利益のために、法律を無視し、労働者の安全配慮義務を顧みない会社のほうが、不遜にも、僕を非難する。
そんな奴の言うことなんぞに、僕は耳を傾けない。
裁判所でも同じ文句を言える者だけ、僕に立ち向かってほしいものだ。
しかしながら、そのような会社を選んだ僕の選択と判断が悪いと指摘されれば、その点に限って、百歩譲って、僕の非を認めることができる。
日本の会社の9割以上は中小企業である。
そして、中小企業においては、純白のホワイト企業は存在しないというのも、なんとなく分かってきた。
どの企業も、労基署に顔向けできないような汚点を、隠し持っている。
それを分かっていて、(それしか選択肢がないとはいえ)タクシー運転手や営業に応募して、ブラック企業に自ら飛び込んだのから、その点においては、いくらか僕にも過失がある。
ならば、大企業に勤めたら、どうだろうか?
国内有数のメーカーであれば、さすがにケチなサービス残業はないはず。
七転び八起きの末に、借金返済を目標に、派遣社員として今の派遣先にたどり着いたが、労基法の遵法意識の高さについては、これまで勤めた幾多の会社の中では、断トツである。
残業代は残御した分だけきちんと支払われるのは当然のこと、加えて、有給休暇も10割消化できるし、人間関係も良好ときている。
本当は何か訴訟の材料があるんじゃないかと、血眼になって粗探しをしてみたが、些細な点を除き、労働トラブルとして訴えねばならないような問題はなかった。
殆どないと分かったときは、さすがは大企業だと感心したものであった。
「寄らば大樹の陰」「長いものに巻かれる」とは昔からよく言ったもので、それから5年以上、僕は派遣先で働き続き、かつてないほど、時には退屈するくらいに、安定した生活を送ってきた。
金銭的には相変わらず低空飛行を続けているが、数カ月ごとに履歴書を書いたり、新たな仕事を覚えたり、引っ越ししたりしなくていい分、気が楽なのは確かである。
これから先どうなるか分からないし、工場での生活に慣れるために失ったものも大きいが、とりあえず今の職場を大事にしていこう。
そのように今ある生活を受容していこうとしていた矢先に、今回の不祥事が発覚したのだ。
新卒で入った会社も駄目、営業もタクシーも西陣織も駄目。
ならば中小企業が駄目なら大企業へと、一介の派遣社員として大手のメーカーへ転身を果たしたら、このありさまだ。
何を選んでも、うまくいかない。
もはや、呪いである。
厄介なのは、この不祥事の規模やメーカーの組織的な問題、そして経済的な悪影響が大きすぎて、この先どうなるか全く分からない点にある。
いつかの報道では、この不祥事を「前代未聞」と形容していた。
ゆえに、派遣先の上司や派遣会社に問い合わせても、何ら明快な返答は一切返ってこない。
誰もこの先どうなるか分からないのが現状なのだ。
いつまでも居てもいいやと一度は心に決めた職場であったが、これから契約を打ち切られてもおかしくない。
派遣会社とは無期雇用契約を結んでいるので、「派遣切り」にあったからといって、直ちに路頭に迷うことはない。
たとえ契約が切られても、別の派遣先を紹介してもらえることになっている。
ただ、慣れた職場に広い社宅、何をするにしても便利な街を手放すことになるので、それが非常に忍びないのだ。
長年ひた隠しにされてきた不正は、見事に露見された。
派遣先の運命は、これから始められる行政による検証に、その全てが委ねられている。
そして、派遣先の運命とは、とどのつまり僕の運命でもあるのだ。
はたして、この不祥事はどのような幕切れを迎えるのか?
一足早く冬休みを迎えてからの僕は、膨大な量の調査報告書を読み進め、時にはネットニュースを漁りながら、これからの行く末を想像していた。
ネットニュースの口コミや掲示板、SNSなどでは、期間工派遣社員は契約が更新されないという意見が散見された。
たしかに、その可能性はなきにしもあらずである。
しかし、それは本当にどうしようもなくなったときの苦肉の策であると考える(あくまで一介の派遣社員の推測であることをご了承願いたい)。
「本当にどうしようもなくなったとき」というのは、詰まるところ、生産規模を縮小し、製造ラインの数を減らすことである。
もしくは、やむを得ず生産活動そのものを断念するときであろう。
始めに、製造ラインの特徴を、大雑把に述べていきたい。
まず、1種類の製品を造るだけでも、数多の製造ラインをくぐり抜けなければならない。
そして、その製品を完成させる上において、どの製造ラインも欠かすことはできない。
また、製造ラインには正社員だけでなく、期間工派遣社員技能実習生など、有期雇用者も大勢働いている。
正社員より比較的人件費の安い彼らがいるからこそ、その分だけ製品の価格も安く抑えられている。
さらに、ライン作業をする人数は、大きく減らせない。
製造ラインは、マニュアルによって厳格に細分化・個別化されており、一人一人の作業の棲み分けがはっきりしている。
だから、人数が規定より多すぎても少なすぎてもいけないのだ。
例えば、ある工程のラインには、20人必要と定められておれば、必ず20人でやらなければならない。
サービス業なら、「ワンオペ」という言葉にあるとおり、1人で数人分の仕事をさせることも、可能かもしれない。
しかし、工場では役割が細分化・個別化されたマニュアルに従わないといけないので、持ち場を兼任することは不可能なようにできている。
そのため、過去に工場内で新型コロナウイルスが流行したとき、ある製造ラインでは感染による欠勤者が多すぎたために、数日間の休業措置を取らざるをえなかった事態もあるほどだ。
以上のように、1つの製品を完成させるにあたって、必要な製造ラインの数は減らせず、また各工程の製造ラインの人数も減らせないというのが実情である。
なので、これから先、派遣先が不祥事の責任をきっちり取り、いずれは生産を再開させるつもりなのであれば、今現在、在籍している期間工派遣社員を簡単に切り捨てるわけにはいかない。
切り捨て、人数を減らしてしまえば、生産再開の許可が下りても、即座にラインを稼働させることが不可能だからだ。
もし、期間工派遣社員の契約が更新されなくなったとすれば、それは、製品の製造ラインを解体し、製造そのものを断念することであると予想する。
つまり上流から下流にかけて、その製品を造り上げるのに必要な全ての工程の解体である(再三申し上げるが、あくまで一派遣社員の推測であるので、悪しからず)。
それならば、国内工場の出荷が停止している現状において、一旦勇気雇用の従業員を解雇させ、生産を再開させるタイミングに合わせて、新たに募集をかけて、雇い入れればいいではないかと思われるかもしれない。
しかし、それこそ、売上げや納期の数字しか分からず、現場の実態に理解のない経営陣と同じ考え方なのだ。
机上において、コストである人件費の数字を足したり引いたりすることは簡単かもしれない。
帳面を広げて、その上に数字をいじくり倒して解決できるのなら、どれだけ楽か分からない。
だが、実際に現場でOJTで教育しなければならない社員にとっては、とてつもない負担になる。
僕も長年働いてきたが、一度に仕事を教えなければならない新人は、同じ持ち場で1人が通例だった。
それ以上になると、仕事の量が多くなって、社員さんの手が回らなくなって、大変なことになる。
目先のコストカットを最優先にして、期間工派遣社員を全て切り捨ててしまうと、生産を再開させる段になって、切り捨てたのと同じだけ補充された期間工派遣社員を、社員さんが一返にまとめて教育しなければならなくなる。
素人目から見ても分かる、そんなことは不可能だ。
ただでさえ人不足の現場で、忙しく立ち回っている社員さんに、数人まとめてOJT教育する余力はない。
また、持ち場によって、作業の難易度はまちまちだ。
優しいものであれば、教育を受けてから一人前になるまで1週間もかからないが、難しいものであれば、1カ月くらい時間をかけて練習させなければ、上達できないものもある。
もちろん、その間は、教育者は新人につきっきりで、他にやるべき仕事ができなくなる。
そういった事情から、新たに新人を雇い入れて、ライン稼働させるにしても、上達具合にばらつきが出てくるので、予定の数を造るにしても、時間通りに終わらないことも予想される。
さらに、よしんば頭数を揃えられたところで、早いうちに「飛ぶ」新人も一定いる。
職場に入って数日で出勤してこなくなるのだ。
もちろん、電話をかけても音信不通で、寮を確認してみると、きれいに片付けられて、もぬけの殻というオチだ。
平時においても、1人飛ばれたら大変なのに、今回のような有事において、現場に配属された新人の数人でも、一返にまとめて飛ばれてしまったら、生産再開どころではなくなる。
人件費の削減のために、期間工派遣社員をまとめて切り捨てるのは、簡単だ。
しかし、また後日、新たに別の人員を雇い入れる際には、浮いた人件費以上のコストと、膨大な時間を無駄にするリスクも念頭に置かなければならないだろう。
それなら、工場の出荷が停止されていようとも、現場の仕事に精通している期間工派遣社員には休業補償を支払ってでも、大事な戦力として引き止めておく方が、現場の負担は格段に減る。
少なくとも、休業補償で引き止めておけば、生産が再開される時、新人を教育するという手間が省ける。
ゴーサインが出たと同時に、製造ラインを稼働させることができる。
もちろん、休業補償なので、基本給の何割かは削減される上に、残業代も夜勤手当がつかず、社会保険料も変わらない。
突如として逼迫した経済事情に堪り兼ね、やむなく転職を決意する期間工派遣社員も少なからず現れるだろう。
それでもその数は、全ての有期雇用者の首をすげ替えた場合と比べると、少ないはず。
現場に与える負担も、有期雇用者全員を入れ替える場合と比較して、少ないはずなのだ。
ゆえに、派遣先はわずかでも生産再開の可能性を諦めていないのであれば、休業補償で有期雇用者を温存するだろう。
これが、5年間現場を見てきた経験から導き出した予想だ。
我ながら無難で楽観的な予想だと思う。
冷静な予想というより、そうなってほしいという願望なのかもしれない。
しかし、今できるのは、その一縷の望みが現実になるように、ひたすら祈ることだけだ。

2023年の短い総括

今年は、始めから終わりまで、初めてのことばかりに挑戦した、刺激のある1年であった。
上半期は、約50万円の借金を踏み倒したMさんに対する法的処置に追われた。
少額訴訟強制執行、それに財産開示手続という具合に、全くの合法的な手段で時間をかけて外堀を埋めていき、Mさんの逃げ道を塞いでいった。
そして、財産開示手続の呼出に応じず、出頭しなかったという、言い逃れできない証拠をひっさげて、刑事告発に踏み切ったところ、警察は告発状を受理してくれた。
目下のところ、警察の捜査が集結し、Mさんが書類送検されるのを、首を長くして待っている。
そして、上記の顛末を書いてブログに発表した後、同人誌にして、文学フリマで販売した。
結果は、22部も売れるという盛況ぶりであった。
また、夏休みに、人生で初めての海外旅行に行った。
行き先はインドネシアのバリ島である。
帰国するインドネシア人の技能実習生の社交辞令を真に受けて、臍を固めたのが、きっかけだ。
誰にも頼れない個人旅行で、出発する2,3カ月前から、インドネシア行きの旅行に必要なあらゆる情報をパソコンで調べまくるだけでなく、簡単なインドネシア語も頭にたたき込んだ。
不安しかない旅路であったが、それだけになんとか日本に戻れたときは、肩の荷が下りる思いをしたものだった。
年の瀬を間近に控えた12月某日、働いていた派遣先において、前代未聞の不祥事が発覚し、メディアを騒がせる事態となった。
そのため、さしあたり1月は工場の稼働は停止。
再開のめどは立っていない。

入社して5年ののんき者である

9月上旬、派遣会社の担当者から、電話がかかってきた。
「お疲れ様です。のんき者さんに手渡したいものがあるので、自宅に伺いたいが、いつならのんき者さんの都合がつくでしょうか?」
「手渡したいもの、ですか?」
担当者からの、あまりにも珍しい用件に、僕はいつになく首を捻った。
3カ月に一度の契約をするための、就業条件明示書のことだろうか?
いや、それならわざわざ電話でアポを取らずとも、封筒に入れてポストに投函しておいてくれれば、それで済む。
これまでそのやり方でやってきたし、これからもそのやり方で問題ないのは、お互い承知しているはず。
かといって、他に担当者から直接手渡されなければならないようなものは、思いつかない。
とりあえず、次の日の夜勤の出勤前に、自宅に来てもらうことにした。
約束の時間が来ると、部屋のチャイムが、担当者が来訪したことを告げ知らせた。
ドアを開けて、挨拶をそこそこに、担当者から手渡されたものを受け取る。
しっかりとした装丁のバインダーと、祝儀袋であった。
バインダーを開いてみると、そこには勤続5年目の賛辞がつづられた賞状が入っていた。
「そちらの祝儀袋には、5,000円分の商品券が入っているそうです」
思いも寄らない賞状を授与する羽目になって、目を白黒させているところへ、派遣会社が祝儀袋の中身を教えてくれた。
「僕もここまで長く同じところへ勤めたのはここが初めてなんで、よく知らないんですけど、5年勤め上げたら賞状をもらうのは、世間からしたら当たり前なんですかね?」
「いや~、僕もここは3年目なんで、よく分からないです」
「そうですか。とにかく、わざわざありがとうございます」
「いえいえ、これからも頑張ってください」
営業所に引き返す担当者を見送ると、すぐに部屋に戻って、頂戴したものを確認しにかかる。
あぐらをかき、バインダーと祝儀袋を床に置く。
まずは、祝儀袋の中身を改めるために、開封する。
入っていたのは、JCBの1,000円分の商品券が5枚。
次に、バインダーを手に取る。
これは賞状が汚れたり折り目が付かないようにするためだけの道具であるが、これと似たようなものを、大学の卒業証書を授与してもらったときに、一緒にいただいた。
賞状には「表彰状」と銘打たれ、以下のような文言が記されていた。『あなたは入社以来五年にわたり誠実に勤続され社業発展のため誠心誠意努力し貢献されました』
『その功績は誠に大きく他の模範とするところであることからその功労を称え本状ならびに記念品を贈り表彰いたします』
これだけである。
営業目標を達成したとか、大口の顧客と新規契約を交わしたとか、そういう類の表彰ではない。
ただただ、5年間工場に通っただけで、僕は表彰されてしまったのだ。
会社に大きな利益をもたらす成績を残した社員を表彰するというような話は、どこかで耳にしたことがある。
ただ、成績の有無にかかわらず、一定の年数を勤め上げただけで、このような形で賞められるというのは、聞いたことがない。
もっとも、工場の派遣社員に求められるノルマは皆無である。
よって、それは派遣社員が自主独立して行動する余地は、寸毫たりとも与えられていないことを意味する。
他の職種、とくにサービス業なんかにおいては気の利く人だと評価されるような行動でも、工場においてそれがマニュアルには無い自律行動であれば、叱責を食らう。
だから、遅刻もせず無断欠勤もせず、マニュアルさえ守ってくれれば、それだけでお偉方の眼鏡に適うライン工となるのだ。
ただ、遅刻も無断欠勤もしないで、職場に通い詰めなければならないのは、どこの職場でも共通する常識だ。
何もご丁寧に賞状と、バインダーまで用意して、わざわざ持てはやすものではないように思う。
なんだか馬鹿にされているような気分だ。
僕は苦笑しながら、バインダーと祝儀袋を片付け、仕事に出かけた。
・・・・・・それにしても、工場で働き出してから、もう5年もの年月が経っていたのか。
1分ごとに繰り返す単純作業をこなしながら、出勤直前にいただいた賞状のことを思い出し、入社から今日に至るまでの道程の、あまりの短さに打ちのめされていた。
工場に転がり込んだ時は、そこまで長居するつもりはなかった。
2年か3年くらい働き、その間借金を返して、まとまったお金を貯めれば退職するだけの、寄留先に過ぎなかった。
ところが、気づけば5年という長い年月が経過している。
ここまで僕を工場に引き留めさせたのは、無論、借金の完済と、貯蓄である。
だが、それ以上に、この仕事が性に合っていたという恩恵に浴していたことも、忘れてはならない。
天職ではないだろうが、適職には違いない。
部活や職場では、一つのことに集中しすぎる、周りのことが見えていない、などという指摘を、これまで何度も受けてきた。
その特徴のせいで、営業や仲居をしていた頃は、仕事をこなすのにひどく苦労したものであった。
ならば、その特徴を逆手にとって、新聞配達、清掃、デバックのアルバイトに就いてみると、うまい具合にピタリとはまったのだ。
目の前のことだけに集中しがちな僕の特性は、単純作業を繰り返すような仕事が向いているようである。
さて、ライン工であるが、この仕事は肉体を酷使されるとはいえ、まさに僕の得意とする所であった。
今日は昨日やったことを繰り返し、明日は今日やったことの繰り返しだ。
イレギュラーで不安な要素をとことん排除したこの仕事は、僕にこのうえなく安心感を与えてくれる。
温泉旅館に住み込みで働いていたときは、そういうわけにはいかなかった。
毎日来るお客さんの人数や年齢層、性別は、全くもって同じものはなく、昨日のお客さんでは通用した接客の方法が、今日のお客さんでは通用するとは限らない。
他のお客さんでは喜んでくれていたことも、今日のお客さんには怒りを買ってしまうかもしれない。
お客さんが旅館に滞在している間は、つきっきりでいるわけでもないし、口に出してご案内する台詞も決まっているから、よほどのことがない限り、怒られたり、クレームが入ることはない。
それでも、全くないわけではないから、毎日緊張の糸を張り巡らさなければならない。
受付を済ませてリビングで待っているお客さんを迎えに入った時、穏やかで優しそうな人だったら、心の中でホッと胸をなで下ろす。
逆に、ガラの悪そうで、性格がキツそうな人なら、しんどい仕事になりそうだと、がっかりする(もちろん、第一印象が悪い人が必ずしも旅館で悪さをするわけではない)。
このように仲居の仕事をしている間は、仕事の質の軽重がお客さんに左右される。
毎日毎日「お客さんガチャ」を引いて、一喜一憂せねばならないから、仲居の仕事をこなせばこなすほど、神経がすり減らされるわけである。
新聞配達やライン工は、仕事の内容に変化がないので、やっているうちに飽きが来るかもしれないが、営業や接客で感じるような、人を相手にする仕事につきもののストレスがない。
面白くないかもしれないが、仕事に面白みを求めているわけではないので、つまらなくても気にしたことがない。
面白みややりがいがあることより、自分にできるかどうか、そして、苦痛やストレスのないことのほうが、仕事を長く続ける上で重要だと僕は思う。
今のところ、職場ではいい人ばかりだから、人間関係は良好と言える。
給料も一人で生きていけるだけの金額をもらっている。
2022年の春に引っ越した社宅は2LDKで、家賃は無料である。
仕事を始めた頃は、交代勤務が苦しくてたまらなかったが、5年も続けると、否が応でも身体は慣れてきて、今ではあまり気にしなくなっている。
それに、僕は派遣社員なので、どれだけ長く働いても、出世しないのもいい。
もとより、「責任」というやつが嫌いなのだ。
自分だけのことなら、失敗したり、叱られたりしても耐えられる。
しかし、上役となってとある集団、とある部署、とある組織をまとめて、リーダーシップを発揮せねばならないのは、堪らない。
生活や趣味、仕事においても、独り歩きしがちな僕には、他の人の世話を見るのは、如何せん荷が重すぎるのだ。
だから、障害者支援施設や西陣織の工場での面接で、ゆくゆくは管理職になってもらいたいと担当者から言われたときは、心臓をドキリとさせられ、一瞬身構えてしまった。
約7年前のことだけど、今でもそのことをよく覚えている。
それよか、派遣社員という肩書きを背負えば、それだけで出世コースから外れるのは明らかなのだから、気楽にライン作業に務められる。
ちなみに派遣とはいうものの、遅刻や無断欠勤など、常識外れの過失を繰り返し犯さない限り、契約を切られることはない。
外国から労働者を雇い入れなければならないほど、現場の人手が足りていないからだ。
だから、僕が望めば、いつまでも同じ派遣先で働いてもいいのだ。
そんな感じで、5年間働いた結果として、上記のようなメリットを見いだすに至ったが、強いてデメリットをあげるなら、時間がないことだ。
朝早く家を出て、夜遅くに帰ってくる。
ちょっとでも残業をしようものなら、平日は働いて寝るだけで精一杯の生活となる。
送迎してくれる派遣会社のバスは、片道30分以上かけて、僕の社宅の近くまで送ってくれる。
しかし、本数が50分に1本なので、あとちょっとのところで乗り遅れてしまった、ということになれば、バスに間に合えば睡眠時間に充てられたであろう貴重な50分を、バス停で無為に過ごすことになる。
時間がないと、書くことがままならなくなる。
そんな日々が続くと、日記もブログも滞りがちになる。
それが、僕にとって一番の痛手だった。
痛手ではあるが、お金のためなら仕方がないと、自分自身に言い聞かせているうちに、少しずつその痛みにも慣れ、妥協し、折り合いを付け、そうして騙し騙し生活することを覚えてからは、幸せは遠ざかる一方で、経済的にどん底であった日常は少しずつ盛り返しつつある。
プライベートにおいて散発的にトラブルに巻き込まれたし、世界中に猛威をふるうコロナウイルスによって、一時は工場の稼働を長期にわたって停止する事態に追い込まれた。
しかし、大半は判を押したような日々の繰り返しで、それは時間の流れを加速度的に速めた。
借金だが、入社したときのそれを50とすると、年を経るにつれ100、150と増えていき、それがまた100、50と減っていったため、入社直後の時と今と比べてみると、ほとんど大差ない。
パチンコに狂わされて、無意味に5年をふいにしてしまったようなものだ。
人生において、どこで躓くか分からないのに、一度躓けば立ち直るのに時間がかかる。
そして、今日まで僕は躓きっぱなしの道のりを歩んできた。
次の節目となる10年目も、おそらく僕はここの工場で働いているだろう。
それまでの道のりは、安全で平坦であることを、心から祈るばかりだ。