地震予知の噂、パスカルの賭、備蓄

2025年6月21日は土曜日なので、本来ならば休日であるはずであった。
しかし、4月に発生した休業の振り替えという名目で、できなかった生産を取り戻すべく、工場に駆り出されてしまった。
梅雨前線は早々と消滅したため、時期はずれに猛烈な熱を帯びつつある朝の日差しが、工場に向かういたいけな中年独身派遣社員の頭上に、容赦なく降り注ぐ。
まだ6月だというのに、この暑さだ。
これから数ヶ月先の日和が、思いやられる。
17時に仕事を切り上げると、工場で缶詰にされていた工員たちは、一斉に敷地から飛び出すために、一時的に道路は渋滞する。
動いたり止まったりを繰り返しながら進んでいく前の車の後をスーパーカブで進みながら、これからの計画に必要なものを、頭の中で整理してみる。
そして、帰宅すると、身体の疲れを押して、すぐさま平和堂に向かう。
2階のくらしの広場に着くと、まっすぐ防災品の売り場に直行する。
そして、非常用簡易トイレと、凝固剤付トイレ非常用袋(100回分)、大判ウェットタオル(60回分)で買い物かごをいっぱいにすると、すぐさまレジに向かった。
値段は合計で18,839円となった。
自分の意志で選んだこととはいえ、いつ使うか分からないトイレとウェットタオルに2万円近くの大金を支払う段になると、やはり自分の選択が正気なものとは思えず、やはり店員さんに謝って、会計を取り消したくなった。
しかし、万が一のことが起これば、真っ先に必要になるのはトイレなのには間違いないのだ。
断水すれば、糞尿も止まるのかと言えばそうではない。
断水しようがしまいが関係なく、定期的に、尻から便が排泄され、股間から尿が垂れ流されるのだ。
だが、災害によって水道が止まってしまえば、決まった頻度で排出される体内の排出物を衛生的に処理するトイレが機能不全に陥って、有名無実の代物に成り下がる。
やむにやまれず、戸外の片隅の一カ所を、臨時の排泄場所に定めたところで、支援が来るまでの最低1週間(僕の勘では1ヶ月は想定しておく必要があると思う)は、鼻の奥までつく激臭と、糞尿にたかる大量の蠅の中、現代人にはあるまじきあられな姿勢になって、用便を済ませないといけない。
備蓄と聞けば、誰もが思い浮かべるのが、水やら食料やら体内に入れるものばかり。
もちろん、それも生きていく上で大切だが、体外へ出すものに関しては全く念頭にないように思われる。
だからこそ、水やら缶詰やらはスーパーマーケットやドラッグストア、コンビニなどで大量にあるが、簡易トイレやトイレ非常用袋が棚に陳列されることはめったにない。
かくいう僕も、トイレについて全く考えてなかった一人である。
しかし、物資の備蓄を検討し始めた数日前に、たまたま平和堂の防災品の売り場でこの非常用トイレが目に飛び込んできたとき、すぐさまトイレの重要性に思い至り、昨日になって買い占めに走ったわけである。
僕の備蓄の準備は、トイレから始まった。
いざ必要になっても入手しにくいと考えられるものを、ひとまず揃えられてよかった。
当然ながら、これだけで十分ではない。
次に、水やら食料やら、生存する上で必要なものを速やかに備蓄しておかなければならない。
あの予知が正しければ、件の大災難は、もうすぐそこまできているらしいのだ。

たつき諒さんという漫画家が、予知夢で2011年3月の東日本大震災を予言した、その同じ人が2025年7月に大災難があると予知しているという話は、ネットを介して前々から知っていた。
とはいうものの、知った当初はまだ先のことだから、気にもしなければスマホでごく簡単な概要さえ調べてみる気もしなかった。
書店で『私が見た未来 完全版』が平積みされ始めても、見て見ぬふりをするだけであった。
しかし、その7月が到来するまで、残り2週間となった時に、ようやく僕も色めきだって、気にするようになってきた。
「もし、本当に大災害が起こるなら・・・!?」
仕事中、すっかり板についた単純作業の気晴らしに考えることは、そんな突拍子もない空想ばかりだ。
スマホで「たつき諒」で検索するの、しばしばだ。
しかし、ネットの情報は眉唾物ばかりでいかんせん信じられんということで、第一次情報源であるたつき諒さんの『私が見た未来 完全版』を買って、読んだ。
このような大災害のオカルトめいた予言は、昔からあふれていたが、そのいずれも真に受けたことはなかった。
しかし、たつき諒さんの予知に関しては、どうも引っかかって切り捨てられないでいる。
まず1つ目に、彼女は一介の女性漫画家に過ぎないこと。
秘境の部族の魔術師でもなく、新興宗教の教祖でもない。
予言・予知のイメージと結びつきやすい肩書きや地位を持つ職業ではない漫画家として生きる一般人であることが、まず普通ではないように思われた。
2つ目に、自分から喧伝して回ったのではなく、発見されたという形で、予知が知れ渡ったということ。
後日購入した『天使の遺言』によると、漫画家引退作品となる『私が見た未来』を出版したのは1999年。
その表紙に「大災害は2011年3月」という予知が書かれていたのだが、発売当時はあまり話題にならなかったが、2011年3月11日に東日本大震災が起こると、一部のネットユーザーから「災害を当てた! 予知していた!」と騒がれたようであった。
そして、そのことを人づてから聞かされたたつき諒さんの反応は淡泊なものであり、『ようやく私も「そういえば描いたなぁ」と思い出しましたが、当初は「ふーん、そうなんだ」と受け流す程度でした。』と当時のことを綴っている。
3つ目は、商売っ気が感じられないこと。
東日本大震災を予知したことで一躍時の人となったたつき諒さんであるが、この騒動に便乗して、メディアにどんどん露出したり、予知夢の本をバンバン書き上げて出版したりするようなことをしていない。
僕が買った『私が見た未来 完全版』は、発行日は2025年6月10日で、第37刷にあたるので、それだけでも相当額の印税を獲得したではないかと反論されるかもしれない。
しかし、『天使の遺言』を紐解けば、『私が見た未来』の復刊はたつき諒さん本人の知らないところで段取りが進められていたことが書いてあった。
出版元が絶版になった『私が見た未来』の復刊を企画するとき、2020年に登場したたつき諒さんの偽物とネットで連絡を取り、その偽物がたつき諒さんの代理人として打ち合わせに現れたそうなのだ。
たつき諒さん本人がこの復刊を知ったのは、ネットの広告を見た姉からの電話であったとのことであった。
それから、本物のたつき諒さんが出版元に電話をし、本人確認をしてもらったのち、急ピッチで再編集が進められ、『完全版』となって出版されたのだ。
そうして、本が売れに売れ、第37刷まで刷るに至ったという次第である。
本来であれば、予知・予言は霊感商法の手段として用いられてもおかしくない。
しかし、商売っ気のあったのは偽物のほうで、本物が読者に求めているることは、これから起こるかもしれない災害に備えて「今から準備・行動しておくこと」(『完全版』)だけである。
予知が外れたら、心ないネットユーザーから批判や非難が殺到するかもしれない。
それなのに、防災意識を高めること、事前に準備しておくこと、それだけを呼びかけるためだけにとどまれるだろうか?
4つ目は、予知が当たっていること。
これが一番のひっかかりの核心といえる。
1999年に出版した漫画の表紙に、「大災害は2011年3月」と予知夢の内容が書かれ、2011年3月11日に実際に東日本大震災という形で、実際に予知が的中してしまった。
この事実があるからこそ、僕の不安が拭い去れないでいるわけだ。
ちなみに、たつき諒さんの予言している大災難の日にちは、7月5日とネットユーザ-から噂されているが、これは読者が勝手な解釈をして拵えた憶測にすぎず、このことは予知をしたたつき諒さん本人が神戸新聞の取材において、「2025年7月5日が、予知の日というわけではございません」とはっきりと否定している(記事URL→

「7月に大災害」うわさ拡散 漫画の「予言」が発端 香港に波及、訪日控える動きに 科学的根拠はなし|社会|神戸新聞NEXT

)。
つまり、彼女の言うところに従えば、7月1日から31日までに「大災難」が起こるということらしい。
なので、7月5日を無事にやり過ごしたとしても、彼女の予言が外れたということにはまだならないし、7月5日よりも前に「大災難」が訪れる可能性があるのだ。
だから、たつき諒さんの予言が外れたかどうかは、8月1日になるまで分からないのだ。
予知の時期がどんどん迫ってきているものの、この事態を自分の中でどのようにとらえたらいいのか決められないでいた。
確固たる警告か、聞くに値しない戯れ言か。
とりあえず大災難が起こったら、会えなくなるだろうと思ったので、久しぶりの知り合いに連絡して、会ってみた。
自分の中で悶々と考え込んでいると、どうもこうも、一大事が迫っているようにしか思えなくなるのだが、実際に知り合いと顔を合わせ、ことの事態を声に出して説明していると、なんだか、心の熱が一気に引いて馬鹿馬鹿しくなってくる。
そもそも、「日本とフィリピンの中間あたりの海底がボコンと破裂(噴火)」して「東日本大震災の3倍」もの高さの津波が押し寄せ、「日本列島の太平洋側、3分の1から4分の1が大津波に飲み込まれて」しまうなんてことが、ありえるのであろうか?
百歩譲って海底火山が噴火するのは起こりえるものとして、そこから、日本列島の4分の1を水没させるような大津波が生じえるのであろうか?
そもそも、たつき諒さんが夢の中で見た大災難の映像は、将来起こる津波を直接表したのではなく、別の不幸を暗示するための象徴ではないだろうか?
まだ彼女の著作に全て目を通したわけではないので、はっきりと白黒をつけることは現時点ではできない。
信じる理由と同様に、信じられない理由をいくらでも見いだせる。
単なるガセと切り捨ててもいいような気がする。
しかし・・・。
先日、本棚にあるパスカル『パンセ』(塩川徹也訳)を何の気なしに手に取ってパラパラとページをめくっていたとき、ハッとある問いがひらめいた。
そもそも、予知が当たるにせよ外れるにせよ、それを信じた僕に、結果としてどれほどの不利益が生じるのだろうか?
『パンセ』の中に「賭」という有名な議論がある。
神の存在が不確実である状況において、神がいることに賭けることの有利を説いた議論である。
人は理性を用いても、神が何であるかも、存在するのかどうかも知ることはできない。
その上でわれわれは神がいるのかどうか賭けなければならない(「なぜならきみはもう乗船しているのだ」)。
そして、神が存在している方に賭け、それが当たっていた(存在していた)場合、われわれは永遠の幸福が得られるが、一方で、外れていた(存在していなかった)場合、判断を違えたことになるが、何も失わない。
神が存在していなかったら、死後において、その判断ミスの償いをさせたり罰を科したりする存在がいないからである。
だから、絶対に損をしないギャンブルをするようなもので、神の存在を把握することができなくも、神の存在がある方に賭けることのほうが圧倒的に優位だからそうするべきだというのが、社交界において賭け事に強い関心を寄せていたパスカルの見解である(ちなみに『パンセ』においては、神がいない方に賭けた結果、神が存在していた場合のケースが書かれていない。おそらく、天国でも虚無でもないところ、おそらく煉獄か地獄に行くことが想定される)。
これを今回の予知になぞらえて、それぞれにおいて、僕は何を得て、何を失うのか分析してみよう。
想定されるケースは4パターンある。
①予知を信じてそれが実現した場合、②予知を信じてそれが実現しなかった場合、③予知を信じなくてそれが実現しなかった場合、④予知を信じなくてそれが実現した場合、この4パターンである。
ちなみに全てのパターンにおいて共通するのは、予知を信じるということは、この場合、自費で備蓄用品を揃えてたり防災の情報を調べたりするなど、何らかの備えをすることを意味する。
その逆に、予知を信じないということは、何の備えもせず、普段通りの生活をすることを意味する。
それを踏まえて、1つずつ分析していこう。
まず①である。
大災難によって日常が一変してしまうだろう。
インフラは破壊され、物流は完全に停止し、食料や水の調達は困難になるであろう。
しかし、溜め込んでおいた非常食や備蓄用品などのおかげで、飢える心配は当分の間なさそうである。
生存確率はぐっと上がり、国や自治体の支援があるまでしのげるだろう。
次に②である。
騒がれていた2025年7月の大災難は、結局のところ起こらなかった。
世の中は普段通りに動いている。
僕に残されたのは、部屋にうずたかく積もられた非常食や水、トイレ非常用袋の入った段ボールの山。
そして、失ったのはそれらの購入に充てた数万円という大金。
また、本気で鵜呑みにしていたがために、友人や知り合いに笑われて馬鹿にされるというおまけ付きである。
ボーナスを割いた甲斐がなかった。
次に③である。
騒がれていた2025年7月の大災難は、結局のところ起こらなかった。
始めから嘘っぱちだと思っていたが、予想通りの展開だ。
予知夢は作者の勘違いだったのだろう。
いらぬ防災用品にお金を使わなくてよかった。
最後に④である。
ありえないことが、起こってしまった。
予知夢なんてあるわけない、単なるたつき諒さんの売名行為だと思っていただけに、今見ている光景を受け入れることができない。
滋賀に住んでいるので、未曾有の大津波に飲み込まれずにすんだものの、この先どうしていいのか分からない。
何も備えていないから、家には何も食べ物がない。
スーパーにもコンビニにも、食料や水を買い求める客で、長蛇の列ができている。
よしんば今日だけ水と食べ物を買うことができても、明日食えるものにありつけられるか分からない。
停電したから、冷房もつかない。
連日かんかん照りの酷暑にさいなまれながら、部屋の中でじっとして飢餓と脱水症に耐えるしかない。
これが死というやつか。
以上の4パターンであるが、現段階において、どれを選ぶべきなのかはまさに予知の期待値によるだろう。
僕にできることは、信じることと信じないこと。この2つだ。
信じることによって失われるのは、非常食や備蓄用品を買うのに費やしたお金、そして買い出しに費やした労力に、選んで見繕う時間だ。
そして、備蓄用品を保管するために失われた部屋のスペースだ。
しかし、一見これらは大きい損失に思えるが、7月の予知が外れたとしても、いずれ起こると言われている南海トラフ地震の備えに転用すれば、全くの無駄ではない。
南海トラフ地震も同様に、明日起こるかもしれないのだ。
だとすれば、たとえ予知が外れたとしても、のんきな僕の防災意識を一気に高めてくれたという具合に、この一連の騒動を前向きに解釈できると思う。
馬鹿にされ、笑われるのは、いつものことなので、どうってことない。
となれば、損失と思われるものは微々たるもので、働けば取り返せる。
少なくとも命に関わる損失ではない。
そして、もし予言が実現してしまえば、たしかな生存を約束されたのも当然であり、その場合の多幸感は確実である。
よって、①と②から信じることのマイナス面は些細なものに過ぎず、プラス面は多大であるということが導き出される。
一方、信じないことによって、僕は数万円の一時的な出費から免れる。
だが、たつき諒さんの予言が現実のものとなった場合、日常は一挙に地獄と化し、明日の生存が危ぶまれるほどの危機的状況に陥る。
よって、③と④から、信じないことから得られる結果は、プラマイゼロか、甚大なマイナスのどちらかとなる。
よって、信じないことでなく、信じることを選択する方が優位であると結論づけられる。
となれば、目前の大災難に備えて、行動するしかない。
全てを失い、取り返しがつかなくなる前に。

そうして、自分の中で意見をまとめて、最初に取った行動が、2万円をかけてトイレの確保である。
またアマゾンでアルファ米100食分を注文した。
支払いはクレジットカードで済ました。
もし翌月クレジットカードの支払日より前に、大災難が起これば、はたして無事に引き落としされるのか心配であるが、まあ、口座に代金がきちんと入っていれば、問題なかろう。
引き落としができなかったとしても、システムに不具合をもたらした大災難のせいで、僕に原因があるわけじゃないのだから。
あと、これからスーパーマーケットで水を買いにいくつもりだ。
一日2リットルを目安とすれば、60リットルはほしいところだ。
あとは普段履きにできるしっかりしたウォーキングシューズがほしい。
少なくとも一日30kmの行軍に耐えられるほどの強力なものがいい。
例えば、京都市にいた時に被災したら、電車は止まっているだろうから、歩いて逢坂の関を超えて、滋賀県の自宅に帰れるようにしたいのだ。
デザイン重視の底の薄い靴では、長距離の行軍においては心許ない。
靴底がしっかりとした靴を選ばなければ、琵琶湖はおろか、逢坂の関にもたどり着けない。
細かいものも挙げればキリが無いが、とにかく7月まであと1週間しかない。
できる準備は早めにしておくべきだろう。
そして、大災難を生き残るのだ。